 |
U キルベト・クムランの発掘調査 |
古代オリエント各地で発掘調査が行われるようになるのは19世紀後半になってからで、その始めは手探り状態であった。
それが方法的に進歩するのは20世紀になってからで、特に実績をあげるようになるのは第1次世界大戦後のことであった。
パレスチナでもエルサレムに欧米各国は研究所を持ち、聖書ゆかりの地の調査や発掘を行った。
特にアメリカは、アメリカ東方研究所を設け、オールブライト(W.F.Albright)を中心に大々的に発掘調査を行った。
それにフランスも負けていなかった。
1892年にドミニコ会士J・M・ラグランンジュが創設したエコール・ビブリックは聖書学研究と共に広く各地の地理調査を行い、
発掘にも参画した。
その中心になったのが、地理学者アベル(F.-M.Abel)であり、考古学者ヴァンサン(L.-H.Vincent)で、
後者はパレスチナで行われる発掘調査の現場をくまなく訪れ、その情報を世界に流し続けた。
また彼はその後活躍する多くの学者を育成した。
第2次世界大戦直後に発見された死海文書に関連して、
発見場所近くのキルベト・クムラン発掘調査にアメリカ東方研究所とエコール・ビブリックが協力して取り組むことになったのは、
当時としては最善の選択であった。
その中でオールブライトも絶賛したR・ドゥ・ヴォーは抜群の博識と、鋭くてバランスある判断力を兼ね備え、
修道者でありながらタバコを煙突のようにふかし、みなに親しまれる魅力的な人物であった。
この彼が自ずと発掘調査において指導的役割を果たすことになる。
わたしがエルサレムに行ったのは、残念だがその死の直後で、エコール・ビブリックではその思い出話でもちきりであった。
理想的な発掘調査
発見された死海文書はいかなる人々の蔵書だったのかを求めて、1951年から1956年まで5次にわたって、
キルベト・クムランの発掘が行われた。
発掘調査は遺跡そのもののほか、その周辺の墓地、死海沿岸のオアシスであるアイン・フェシュハの住居の跡、
それに次々と写本断片が発見された洞窟にまで及んだ。
遺跡の調査は、大きな遺跡丘(テルといわれる)の場合、その一部に溝を掘って行われるが、
キルベト・クムランの場合は小さいので、玉ねぎの皮を剥くようにその全体を地表から層をめくって行われた。
出土品は整理して持ち帰り、詳しく検討されることとなった。
発見された写本の解読と共に発掘調査の整理も進める苦労は、有能な協力者がいたとはいえ、
度重なる戦争の恐怖と混乱の中で、想像を絶するものだったにちがいない。
当時、交通や運搬の手段も、電子機器も、今日のように発達してはいなかった。
発掘調査全貌の最終的結果報告は公式にはなされないまま、1971年にドゥ・ヴォーは死んだ。
その個々の出土品の検討はその後も続けられ、現在に至っている。
その早死ににもかかわらず、ドゥ・ヴォーがこの遺跡をいかに考えていたかは、
彼が書いた学術雑誌記事や公演記録などにより、十分明らかになっている。
彼によると、前2世紀中頃からエッセネ派と言われる宗教集団がここに来て施設の建造を始め、
それが前1世紀前半に拡大され、一度破壊され、放棄されるが、西暦1世紀の始め頃に再建され、
70年のローマ軍によるエルサレム陥落直前まで続いたという。
その後、ローマ軍がこの建物の一部を修復して再利用したが、やがて見捨てられた。
イエス前後の時代史を秘めた遺跡
発掘は地表から行われるので、時代的に最も新しい部分から明らかになる。
ここでは逆に最も古い部分からその発掘調査の結果をまとめてみることとする。
発掘以前から顔をのぞかせていた四角の石組みの塔は、
その西側にある円形の水槽(3)と共に紀元前8世紀にまで遡る最も古い遺構で、
これらを含んで長方形の防壁で囲まれた建造物があったらしい。
これはヨシュア記15:61−62にその名が出るイル・メラ(「塩の海」の意)の町ではないかという。
これに対して、それはセカカだという説もあれば、このわずかの遺構だけで、ここに町や村があったと言えるかとの反論もある。
いずれにせよ、この最も古い遺構のあったところに、前2世紀中頃から新しく人が来て住むようになった。
これがエッセネ派で、この教団の施設としてここにあった建造物はその後発展し、破壊され、
再建されるという変遷をたどることになったという。
それをT層、U層、V層と分け、さらに第T層をTa層とTb層に分ける。
Ta層はエッセネが住み始めた頃、Tb層はそれが最も発展した頃の遺構で、
このTa層からTb層への移行は明確ではない。
この建造物は一度破壊され、捨て置かれたらしい。
U層は再建された住居址で、その時期はほぼイエス時代と重なる。
最後のV層は西暦70年以降ここを占拠したローマ軍の駐在所跡だという。
ここではTb層を中心にもう少し詳しく紹介しよう。
写真下は、塔で、当初からその頭をのぞかせていた。
Photo:Dead Sea Scrolls Slide Set, Biblical Archaeology Society 1993 no.61, by H.Shanks
|
 |
 |
この建造物が最も栄えたのはTb層に認めることができる。
それはアレキサンドロス・ヤンナイオスがユダヤを支配していた時代(前103―72年)にあたる。
これは前164年にエルサレムからセレウコス王朝の軍隊を追い出したマカバイ兄弟の子孫、ハスモネア家の王で、
前63年ローマ軍が来襲するしばらく前まで自主独立を誇っていた。
遺跡がこの時期のものであることは、ここでは貨幣が出土したので、その貨幣によって推測された。
貨幣には支配者の名が刻まれているので、時代測定の目安になる。それに陶器も目安になる。
|
 |
最盛期(Ib層) |
 |
|
 |
この時期、古くからあった四角い塔の北に主たる通用門があった。東からここに入ると中庭があった。
その北西部にも通用門があった。
写真右は、塔の上から北西に向って撮ったもの。手前がその中庭で、その向こうの岩山に巻物が見つかった第1巣窟、第2洞窟がある。
主たる通用門を入ると、南側に主要な建物群があった。
これは、古くからある円形の貯水槽(3)あたりを挟んで西と東に分けられ、この建物群への入り口は塔の西側にあった。
塔は堅固に造られ、二階であった。地階は小部屋に分かれていたが、外部へはのぞき窓しかなかった。
この塔はあまりにも小さいので、軍事用に造られたものではなさそうである。
階上へは内部に木製の螺旋階段があったらしい。その二階の南側に出口があって、テラスに出られるようになっていたらしい。
塔の南側には東西に行き来できる通路があり、その東に出ると中庭があった。
その中庭の北に幾つかの部屋があったが、その一つ、長方形の部屋は台所かもしれない。
|
この建造物で特に目立つのは、水利システムで、ワディ・クムラン上流から溝を掘って水を引いきて、
北西部の入り口のところで貯水池(1と2)に貯めておかれた。
ここで澄まされた水は溝を通って以前からあった円形の水槽(3)、
その近くの二つの長方形の水槽(4と5)に引かれた。その西側に新しく漆喰でよく仕上げられた壁のある部屋があった(6)。
これは倉庫であったらしいが、製粉もここで行われたらしい。
写真右は、塔の上から西に向かって撮ったもので、左端に円形の水槽(3)があり、
そこに水を引く溝が右上のほうからあるのが見える。
水は溝に沿って(9)南にある水槽(11)に引かれ、
さらに枝別れした溝によって(10)もうひとつの貯水槽(12)にも貯えられた。
写真下は、前の写真のつづいて、南西に向かって撮ったもの。
右端に円形の水槽(3)があり、水は溝(9)をとおして南の水槽(11)に引いていかれるようになっている。
手間は塔の西側にある中庭。 |
 |
 |
 |
その前に水の一部は食堂(13)の床を洗うようにされている。
また別の一部は壁に沿って東に向かって引かれ、さらに主壁の中を通って染色場(18)、
階段付きの水槽と浴場(16)に貯えられた。ここでは宗教的な沐浴が行われていたらしい。
写真右はその沐浴場(16)で、手前から階段で降りて行けるようになっている。
斜めの亀裂が見えるが、これは地震によるものと判断される。
その東側に洗濯場(17)の跡らしいものがある。
この北側にある空間にトイレがあったのではないかとの推測がある。 |
水はさらに南東に向かって引かれ、大きな水槽(20)に引かれている。
この用意周到に管理された水利システムを見ると、その水は日常生活用だけでなく、宗教儀礼用だったらしい。
食堂は最大の部屋で、長さ22メートル、幅4・5メートルあり、入り口はその北西部と南東部にあった。
写真下は食堂(13)、右端に予備室(14)への入り口が見える。遠景は死海とトランス・ヨルダンの山地。 |
 |
 |
これは集会用の部屋だったようで、その南側の予備室(14)は地震で最も酷く破壊された部分で、
そこから千にものぼる陶器類が破損されて発見された。
小さい壺ないし水差し21個、皿38枚、杯11個、小皿210枚、お椀708個、コップ75個で、
そこには大きな壺やその蓋、瓶やランプはなかった。
食堂では、通常の食事のほかに、宗教儀礼としての宴が行われていたらしい。
建物と建物の間などに壊れた陶器類とともに羊、子羊、山羊、牛などの骨も発見された。
彼らは肉を食べたことがわかるが、それが祭儀用であったかどうか、わからない。
動物をささげるための祭壇はどこにもない。 |
陶器製作場は保存状態が良い部分で、陶工は水槽(19)の水を用い、
漆喰塗りの仕事場(21)で足で踏んで粘土を準備し、そばの穴(22)で粘土を熟させ、
凹み(23、写真右)にろくろを備え付けて、それを足で回しながら陶器を形造った。
その陶器は、2つの炉(24と25)の近くに並べて焼かれた。
塔の南側に小さな内庭(29)があって、そこには階段の跡があり、これを上ると、テラスがあった。
その南の部屋(26と27)の壁にはベンチが造られていて、これが集会室であったことがわかる。
漆喰で仕上げられた壁の穴には、手を洗うための水を入れておくためのものらしい。
ここは巻物の学習のための部屋か、それとも文書を保管しておくための部屋か。
写真下は塔から南に向かって撮ったもの。
その南の部屋への入り口が見えるが、その右にある壁の陰に2階への階段のあとがある。ここが内庭である。 |
 |
 |
 |
その東にある部屋(28)は、そこで見つかった破片を組み合わせて、ここに陶器製の机、長椅子があったことがわかった。
インク壷も発見された。そこでこの部屋は、写経室と命名された(写真右)。また、陶器製の洗面器も見つかった。
おそらく聖書を写す人々は、その前後に手を洗ったのであろう。
インク壷に残った成分と洞窟で発見された写本に書かれた文字の成分も同じであった。
|
南西部の細長い部屋は、おそらく畜舎であった。東端に沿って南北に外壁があり、
これは南に伸び、ワディ・クムランの崖まで達している。これはその東にある墓地と隔てるためのものであったらしい。
このように見ると、ここにあったのは村落ではなく、通常の住居でもない。
倉庫、作業場に比べて居住区は小さく、常住者は多くてニ・三十名程度だった。
これは沐浴を頻繁に実践し、共同で食事を行っていたエッセネ派の宗教的施設だったと思われる。
建物の東部に亀裂が南北に走っているが、これは前31年の地震によるらしい。
そのとき塔も揺れ、火事も起こったらしい。ただし、この火事は地震以前に戦争のときに起こされたものかもしれない。
その後、破壊された建物がすぐに復旧された形跡がなく、ワディから引かれた水があふれるがままにされた形跡、
つまり沈殿した土砂が火事の跡のある層の上にあるので、しばらくほっておかれたことがわかる。
それはヘロデ大王の時代にあたる。
|
 |
U層 |
 |
前4年頃、ヘロデ大王が死んで、その子アルケラオスの治世になってここに住民が帰ってきて、廃虚を利用して新しい建物を造った。
これがU層である。このとき中心部以外のところでは、あまり改装はなされず、倉庫ないし仕事場に少し手が付けられただけである。
食堂(13)も使用されたが、ここを洗うための水の引き込みはなくされている。
予備室(14)も使用されたが、その奥は地震で壊された器で埋められている。
ただ中心部はかなり改装されている。地震で裂け目の入った貯水槽(16)は塞がれ、ここには土が埋められていた。
洗濯場(17)も取り壊されたらしい。その代わり小さな小屋がここに造られたらしい。
地震で揺らいだ塔は周りに大きな石を積み重ねて補強された。
そのため、(32)と(34)の通路り道が狭められた。
この機会に、塔の東側の庭(35)と倉庫(36)が造られた。
階上のある建物(26・27・28)は再利用された。
写経室(28)には階上からの破片が積まれていた。
内庭(29)には、その北壁に炉が造られていた。
(27)の部屋は二つに仕切られている。内庭(31)には炊事用の炉が3つ造られ、中庭(33)の壁にも炉が一つ造られた。
この中庭には新たに部屋(37)が設けられ、染色場(18)はおそらく引続き用いられたらしい。
この時期には、美観は犠牲にして重要な建物をすべてこの中心部に集めようとしたらしい。
西暦66年にユダヤ戦争が始まった時、この建物はさらに戦いに備えて強化されたらしい。
南の壁と炊事場南の壁(31と33)がそのときのものかもしれない。
この建物は西暦68年、ローマの第10軍団がエリコ地方を制したが、
そのときここもローマ軍のものとなり、またその廃虚の一部を用いて、ここに小隊が駐在していたらしい。 |
 |
V層 |
 |
西暦73年以降、つまりエルサレムを占領し、マサダの攻防に勝利したローマ軍は、この建造物を再利用した。それがV層である。
このとき、塔が再利用され、階上のあった建物の部分が盛り上がっており、住居区域にされた。
中心(40)に炉が置かれ、周りに多くの部屋が造られた。
中庭(35)の北壁が厚くされ、北の門も強化されている。またそこに小さな部屋も見える(38)。
南壁は東に向かって伸ばされ、南の門は開かれており、排水溝があってここから中庭(39・16・15)の水がでるようにされている。
この中庭は、その西側の中庭と壁で仕切られている。このように、人間の住居区域と馬小屋を区切ったらしい。
これは、ここにこの海岸地帯と台地をパトロールする騎兵隊の基地があったことを窺わせる。
この建物の外部では貯水槽(20)が利用され、廃虚となった建物の上に水を引くための溝が新しく造られた。
西暦132−135年のバル・コクバの反乱のとき、ローマに抵抗したユダヤ兵が一時ここを占拠したが、まもなくこの反乱は制圧された。
発掘調査結果とその後
この発掘調査にあたり、特にこの遺跡と洞窟で見つかった写本との関係が注意深く吟味されされた。
この遺跡からは文書類はまったく見つからなかったが、文字が書かれた壷があり、その書体は洞窟で発見された写本の文字に通じる。
また写経室からはインク壷も発見された。その底に残ったインク滓の成分と写本の文字の成分との比較検証もされた。
したがって、洞窟で見つかった写本が、この遺跡のあったところにいた住民のものであることは、ほとんど間違いないということになった。
したがってまた西暦68年、ここがローマ軍に攻撃され、占領される前に、
ここにいた住民が自分たちの重要な文書を近くの洞窟に移し、隠したのではないだろうか。
それがおよそ19世紀の年月を経て、1947年頃、遊牧民の少年によって偶然発見されたというわけである。
この発掘調査結果は当初から長く模範的として賞賛されてきたが、20世紀も終わりに近づくと批判されるようになった。
その批判の焦点は、特にこの遺跡を宗教施設として解釈したところにある。
ドゥ・ヴォーは修道者であったから、修道院をモデルに遺跡を解釈しているのではないかという批判である。
批判して、その対案として出されるのが、この遺跡は別荘だったとか(ドンシール説)、
死海の南部から船で運んできた物資の集積場だったとか(カンスデイル説)、軍事上の砦だったとか(ゴルブ説)、
それに年毎の祝祭を行うために集まってくる仮の神殿だったとか(ウンベール説)、諸説が提案されている。
わたしは個人的にこの最後の説に見るべきものがあると思うが、これも含めて新説はどれも、支持を得ていない。
確かに現在から見ると、50年前に行われたドゥ・ヴォーの発掘調査には修正すべきところもあろう。
しかし、その調査結果は大筋において、現在もなお揺るいではおらず、
修正すべきところもあるが、支持されている(最近ではJ・マグネス)。
少なくとも、それは、たたき台とされている。
それにキルベト・クムランを、当時のパレスティナ全体の中に位置付けて、
その関連の中でいっそう具体的に詳細に検討していく作業も続けられている。
たとえば、キルベト・クムランで出土した陶器とほかの場所から出土した陶器の比較とか、
キルベト・クムランにあった墓地と南に少し離れたアイン・グウェイールなどにあった墓地との比較、
それにエルサレムにかつてあったエッセネ地区の発掘調査との関連とかが検討されている。
主な参考文献
- De Vaux, R.,L'archéologie et les manuscrits de la mer Morte,
The Schweich lectures of the British Academy, London, 1961 ; Archaeology and the Dead Sea Scrolls,
2nd Edit.revised, Oxford,1973.
初版の原本に比べて、かなり加筆された英訳版が基本とすべきもの。
予備的発表は、RB誌 56(1949)234-237, 586-609;60(1953)83-106, 540-561;61(1954), 206-236;63(1956),
533-577;66(1959), 225-255
- Qumran, Khirbet and ein Feshka, Encyclopedia of Archaeological excavations in the Holy Land,
Avi Yona, M.et al., eds., Jerusalem, 1978 ; (キルベト)クムランとアイン・フェシハ、
『聖書考古学大事典』、1984年(講談社)、418−426頁(R.ドゥ・ゥォー)。
- Fouilles de Khirbet Qumrân et de Aïn Feshkha, I.Album de photographies.
Répertoire du fonds photographique, Synthèse des notes de chantier du Père R.De Vaux OP,
par J.-B.Humbert OP et A./Chambon au nom de l'École
biblique et archéologique Fran
aise de Jérusalem,
NTOA 1, Series Archaeologica 1, Fribourg-Göttingen, 1994 (発掘時撮影の写真公表)
- Laperrousaz, E.-M., Qoumrân, L'établissement essénien des bordes de la Mer Morte,
histoire et archéologie du site, Paris, 1976;Idem, RQ 10(1980)269-291;12(1986)199-212;rec.de J.Carmignac,
RQ 9(1978), 603-605;de J.E.Sanders, BASOR 231(1978)79-80:ドゥ・ヴォーの発掘に参加したが、
その発掘の解釈は異なるところがある (SDB, IX, col.737-789も参照)。
Id., (sous la direction de), Qumrân et les Manuscrits de la Mer Morte.
Un cinquantenaire.Paris, 1997 p.13-55も参照。
- Du Buit, M., Le monastère de Qumrân, Le Monde de la Bible 4, mai-juin 1978,
14-25:De Buit, Mもドゥ・ヴォーの発掘に参加した。本HP上の見取り図はこの記事から。
- Murphy-O'Connor, J.,Qumran, in :D.N.Freedman, The Anchor Bible Dictionary, V, New York, 1992, 590-594
- Callaway, P.R.,The History of Qumran Community, An Investigation, Sheffield, 1988
- Broshi, M., The Archeology of Qumran - A Reconsideration -, in D.Diamant & U.Rappaport(eds.), The Dead Sea Scrolls, Forty Years of Research, Leiden, 1992, 103-115
- Donceel, R., Reprise des traveaux de publication des fouilles au Khirbet Qumrân,
RB 99(1992)557-573 (このベルギー人夫妻がエコール・ビブリック保存のクムラン出土品の研究を行っている)。
- Donceel-Voute, P., "Coenaculum"-La salle à l'étage du locus 30 à
Khirbet Qumrân sur la mer Morte,
Res Orientales IV, 1993, 61-84
- Donceel-Voute, R.et P., The Archaeology of Khirbet Qumran,
Methods of Investigation of the Dead Sea Scrolls and The Khirbet Qumran Site,
Present Realities and Future Prospects, edited by M.O.Wise et al., New York, 1994, 1-38
- Magness, J., A Villa at Khirbet Qumran?, RQ 16(1994),397-419
- Magnes, J., & Cook, F.M., What was a Qumran?, BAR 22(1996), no.6, 37-51, 72-75
- Magness, J., Qumran Archaeology :Past and Future Prospect, DSS after 50 Years, vol.I., 47-77
- Id., The Archaeology of Qumran and the Dead Sea Scrolls, Michigan/Cambridge, U.K, 2002
- Humbert, J.-B., L'espace sacré à Qumrân.Propositions pour l'archéologie,
RB CI(1994), 161-214 (エコール・ビブリックの考古学者:キルベト・クムランの新しい解釈を提案)
- Id., Khirbet Qumrân, Le Monde de la Bible 86, jan-fevr-mars 1994, 12-21
- Golb, N., The Problem of Origin and Identification of the Dead Sea Scrolls,
Proceedings of the American Philosophical Society 124, 1980, pp.1-24:根本的に異なる解釈を提唱。
- Id., Who Hid the Dead Sea Scrolls?, BA 48, 1985, 68-82
- Id., Who wrote the Dead Sea Scrolls?, New York, 1995
- Crown, A.D., & Cansdale, L., Qumran, Was it an Essene Settlement?,
BAR 20(1994), no.5, 25-35, 73-78
- Id., The Architectural Context of Qumran, in The Dead Sea Scrolls Fifty Years Their Discovery,
eds. L. H. Schiffman, E.Tov, J.C. VanderKam, Jerusalem, 2000,673-683
- Cansdale, L., Qumran and the Essenes: A Re-Evaluation of the Evidence,
Texte und Studien zum Antiken Judentum 60, Tubingen, 1997 (ただし、E.Puechの批判参照)
- Shanks, H., The enigma of Qumran, Four archaeologists assess the site, BAR 24(1998), no.1, 24-37.78
- Albani, M., et Glessmer, U.,Un instrument de mesures astronomique à Qumrân,
RB 104(1997)88-115 (出土した日時計について)
- Cross, F.M., & Eshel, E.,Ostraca from Khirbet Qumran, IEJ 47(1997), no.1-2, 17-28
- Yardeni, A., A Draft of a Deed on an Ostracon from Khirbet Qumran, IEJ 47(1997), no.3-4, 233-237
- Puech, É., The Necropolises of Khirbet Qumrân and
Ain el-Ghuweir and the Essene Belief in Afterlife,
BASOR No.312, (1998), 21-44
- Bar-Adon, P.,Another settlement of the Judaean Desert of Sect at
El-Ghuweir on the shores of the Dead Sea,
BASOR 227(1977)1-25
- H.Eshel and Z.Greenhut, Hiam ek-Sagha, A Cemetery of the Qumran Type, Judaean Desert, RB 100-2(1993)252-259
- Y.Hirschfedt, Early Roman Manor Houses in Judea and the Site of Khirbet Qumran, JNES 57(1998)161-189
- Id., The Architectural Context of Qumran, in The Dead Sea Scrolls Fifty Years Their Discovery,
eds. L. H. Schiffman, E.Tov , J.C. VanderKam, Jerusalem, 2000, 673-683
|
|
|
 |
|