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死海文書入門講座V 和田 幹男
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V キルベト・クムランにいた住民は誰か

 ワディ・クムラン近くの洞窟で発見された写本断片が誰のものであったかを求めて、キルベト・クムランの発掘が行われた。 その結果、この遺跡は宗教的な施設であったらしいこと、またこれは主として前2世紀中頃から西暦70年頃まで使用されていたことがわかった。 また洞窟で発見された写本断片がここにいた住民のものであったことも確認された。 R・ドゥ・ヴォーは、特にこのことを注意深く検証した。 およそ30年後、1980年にN・ゴルブは理論的に写本断片がその住民のものではないとの反論を試みたが、 ドゥ・ヴォーのフィールド・ワークはこの反論を退けてあまりある。
 それではその住民とは、いかなる人々であったのだろうか。 この問題は、死海写本発見当初から大いに議論されてきたが、まだ最終的決着をみていないといえよう。 発見された写本断片は、その所有者がだれであるかを示唆していても、十分明らかにしてくれないし、 発掘の物的証拠はさまざまと解釈されるからである。

 提唱されたさまざまの仮説
 その住民がいかなる人々であったかについて、これまであらゆる可能な仮説が提唱されたといってよい。 洞窟で発見された写本は、中世ユダヤ教のカライ派のものとする説(S・ツァイトリン)をはじめ、 ファリサイ派説(C・ラビン)、初期ユダヤ人キリスト教徒説(J・L・テイチャー、最近ではR・アイゼンマンとB・スィーリング)、 熱心党説(M・H・ゴットシュタイン、C・ロス、G・R・ドライバー)、 サドカイ派説(R・ノース、最近ではL・H・シフマン)、これまで未知の契約共同体説(S.タルモン)、 洞窟の写本を遺跡の住民とは無関係とする説(前述のN・ゴルブ)、 それにエッセネ派説(E・L・スケニク、R・ドゥ・ヴォー、A・デュポン・ソンメール、G・ヴェルメシュなど、 最近ではE・ピュエシュ、J・C・ヴァンダーカム)である。
 死海文書が発見されて50年を超えた現在、その文書の解読と研究が進み、この教団の思想や歴史がかなり明らかになってきた。 こうして自ずとその仮説の中でも、真実はどの方向に求められるべきか絞ぼられてきた。それはエッセネ派説である。 ただし、死海文書は律法の解釈ではサドカイ派の立場を取っており、単純にエッセネ派のものとは言えない。 そこで修正エッセネ派説とも言える仮説(A・S・ヴァン・デル・ワウデとF・ガルシア・マルティネス)がある。 いずれにせよ、ここでエッセネ派とは何なのか、知っておく必要がある。 新約聖書を読めばファリサイ派やサドカイ派についてはイエスの対抗者として何か知っているが、 エッセネ派についてはそこには出ていないので、よくは知られていない。 ただし、福音書に「ヘロデ派の人々」(マルコ3:6;12:13)とあるのは、エッセネ派のことではないのかとの議論はある。 実はエッセネ派(人)は、当時のユダヤ社会を伝える古代の著作家の文書には登場するので、学者の中では知られていた。 その文書をここで紹介しよう。

 古代の著作家が伝えるエッセネ派
 古代の著作家の何人かが、エッセネ派というきわめて熱心で崇高な宗教的集団がいたことを伝えている。 それを知っていた初期の死海文書研究者たちは、死海文書がそのエッセネ派によるものではないかと見当をつけた。 その古代の著作家として大プリニウス、アレキサンドリアのフィロン、 フラヴィウス・ヨセフス、プルーサのディオ、ヘゲシップス、ローマのヒッポリトゥスがいる。 エッセネ派に言及する彼らの著作は、以下のとおり。

大プリニスス(Plinius maior)
☆『博物誌』(Historia naturalis)V.17.4(73)
アレキサンドリアのフィロン(Philo Alexandrinus)
☆『自由論』(Quod omnis probus liber sit)75-91:
 M.Petit, Quod omnis probus liber sit, Les oevres de Philon d'Alexandrie 28, Paris 1974, 196-211
『ユダヤ人弁護論』(=『ヒュポテティカ』、Apologia pro Iudaeis)
 1-18:エウセビオスの Praep. ev. viii 6-7に引用されている。
フラヴィウス・ヨセフス(Flavius Iosephus)
『ユダヤ戦記』(De bello iudaico
 I:78-80;II:113; ☆II:119-161; II:567; III:11I; V:145
『ユダヤ古代誌』(Antiquitates
 XIII:171-172; XV:371-379; XVIII:18-22
『自伝』(Autographia)10-11
プルーサのディオ(Dio Cocceianus), Dio 3:2
ヘゲシップス(Hegesippus): Hypomnemata in Eusebius, Hist.Eccl.IV 22, 7
ローマのヒッポリトゥス(Hippolytus): Refutatio omnium haeresium 9:18-28

 ここでは最も重要な3人の証言(☆)を翻訳して紹介する。

 (1)大プリニウス 
 西暦23年頃から79年(ヴェスヴィウス火山の噴火で壊滅したポンペイで死亡)まで生きていたローマ人で 博識のガイユス・プリニウス・セクンドゥスは兵士として、 また役人としての経歴を生かして諸国、諸民族のことを書いた大著『博物誌』を残したが、 その第5巻の中にユダヤについて触れている。 彼自身はユダヤを訪れたことはなく、誤りも犯すが、何か文書資料を用いたのであろうが、つぎのように書いている。

 『博物誌』,V,17,4
 「[死海の]西岸から害が及ぶところまで、エッセネ人は距離をおいている。 彼らはほかに類のない民族で、世界中でほかの諸民族を超えて驚きである。 一人の女もなく、あらゆる愛欲を断ち、金銭もなく、伴侶はなつめやしの木だけであるが、 来訪者の群衆によって日毎に同じ数を保って再生する。 人生に疲れた人々を、転変する運命が彼らの生き方をするように導き、多くの人が訪れるからである。 こうして、信じられないような話だが、何千という世紀にわたって、ここではだれも生まれないのに、永遠の民族として続いている。 他の人が行う人生の痛悔が、彼らにとっては実り豊かさなのである!
 彼らの下方にエンガダの町があった。 これはその実り豊かさとなつめやしの林においてエルサレムに次ぐものであったが、今ではもう一つの廃墟となっている。 そこから岩山にある要塞マサダがあるが、これもアスファルトの海からほとんど離れてはいない。ここまでがユダヤである。」

 ここで「エンガダ」とあるのは死海の西岸にあるオアシスの町エン・ゲディのこと。 「下方に」(infra)というラテン語にあいまいさがあるが、 「下流のほうに」という意味であろう(J・T・ミリクなどの説明)。 「エルサレム」とあるのは誤りで、エリコのこと。 「もう一つの廃墟」と言って前提されている廃虚となった町は、エリコまたはエルサレムで、 いずれも西暦70年に終わるローマ軍によるユダヤ攻略のとき破壊された。 それゆえ、この記述はその後書かれた。 この70年の直前に、キルベト・クムランも破壊された。 それゆえ、この記述には時代錯誤があるが、70年以前にそこにいたエッセネ人について書いていることは確かである。 そのエッセネ人がいたところは、北のエリコと南のエン・ゲディの間にあったことがわかる。 死海もヨルダン川の続きとして、「下方に」と言われているようだからである。 その間には、古代遺跡としては、キルベト・クムランしかない。「アスファルトの海」とは死海のこと。
 この証言からも西暦70年以前に死海の北西岸近くにエッセネ人がいたことがわかる。 彼らの禁欲生活が特に目立っていたのであろう。彼はそのことを強調して書いている。

 (2)アレキサンドリアのフィロン
 紀元前30年頃から西暦45年までエジプトのアレキサンドリアの町に生きていたフィロンは、 当地のユダヤ人家庭の出身で、哲学者であった。 彼はギリシア哲学とユダヤ思想の共通性を示そうとして多数の著作を残したが、 その中の小冊子『自由論』の中でエッセネ人について述べている。 彼は本国ユダヤに行ったことがあるのかどうかわからないが、エッセネ人についてこう述べている。

 『自由論』(Quod omnis probus liber sit)75-91:
 「75またパレスチナ・シリアも、善徳には不毛な土地ではない。 ここを占めるのはユダヤ人というきわめて人口の多い民族の小さくない部分である。 彼らの中には名をエッセネ人(Εσσαοι)という人々がいて、 その数4000を超える。 この名は、― 厳密に言えばギリシア語の語型ではない―、 聖性(σιότης)に由来すると思う。 彼らは、動物をいけにえにすることによるのではなく、 自分の心を聖なるものとして備えることこそふさわしいと考えることによって、 最も優れた程度に神への奉仕に身をささげた人々だからである(A)。 76まず第一、この人々は市民の習慣となっている無法のゆえに、都市を逃れて村に住んでいる(B)。 それは不健康な空気により病気が起こるように、一緒にいる人々により癒し難い影響が霊魂に及ぶことを知っているからである。 彼らのある者は農民となり、ほかの者は平和に貢献する各種技能を働かせて、自分たち自身と隣人たちに役立つものとなっている。 彼らは銀、金を貯えることなく、利潤への欲望にかられて大きな土地を所有しようとはせず、 生活にどうしても必要なものだけを用意する(C)。 77すべての人間の中で、ほとんど彼らだけが財産もなく、所有する物ものもない者になっているが、 これも運が無かったためではなく、むしろ願望によるのであり、彼自身きわめて富んでいると考え、 僅かのものに満足し、身軽であることこそが、事実そのとおりに、豊かさであると弁えている。 78彼らの中には、矢、投げ槍、短剣、兜、胸あて、盾を造る職人など、 武器や戦いの用具を造る者、何であれ戦争に関わりのあるもの、 また平和に関わりのあるものでも悪用され得るようなものも造る者は一人もいない。 彼らは商業については小売りにせよ、貿易にせよ、夢をもたず、貪欲への衝動を退ける。 79彼らの中には奴隷は一人もおらず、皆が自由人としてお互いに親切にしあう。 彼らは支配者を、平等を踏みにじる不正な者としてのみならず、自然の法則を打ち破る不敬虔な者と見なす。 自然は母親らしく万人を同じように生み、育てて、名目上のみならず、まったく事実上、真の兄弟としたのであるが、 この万人の親近性を、密かにねらう貪欲が勢いを得て崩し、 親愛(οκειότης) に代えて敵対(λλοτριότης)を、 友情に代えて敵意を造り出した。
 80彼らは哲学に関しては、 論理学(τ λογικν)は修徳に不必要として、これを理論家にまかせ、 自然学(τ φυσικν)は神の存在と万物の起源について哲学する場合を除いて、 これを人間の自然による意味を超えるものとして天文学者にまかせる。 しかし、倫理学(τ ήθικν)は、神がかりとされなければ人間の魂がとうてい考えることのできない、 父祖伝来の律法 (νόμοι)を導師として用いて、これをまさに大いに発展させる。
 81彼らはこれらの律法をたえず学ぶが(D)、とくに7日目ごとにそうする。 七日目は聖なる日と考えられているからである(E)。 その日には、ほかの仕事をしないで、シナゴグと呼ばれる聖なる場所に行き、 年齢に従って順次若者が老人の下座に座し、ふさわしい作法を守って耳を傾ける(F)。
 82ついで、ある人が書物を手に取って朗読する。 そこで経験豊かな人々の中のもう一人が出てきて、理解し難いところを解説する。 彼らの哲学は大部分が、古風な研究法にしたがって象徴(συνβόλων)によってなされるからである。
 83彼らは神への愛、徳への愛、人への愛を三つの原則(G)、 基準として用いて、敬虔、聖性、正義、家政、市政、真に善であるものと悪であるもの、 そのどちらでもないものに関わる知識、選ぶべきものを選び、その反対のものを避けることの養成を受けている。
 84神への愛の例として、彼らは無数にもっている。 生涯を通じて絶えず守られる純潔、誓わないこと、嘘をつかないこと、 神があらゆる善の原因であるが、いかなる悪の原因ではないとの考えである。 徳への愛の例は、富への無欲、名誉への無欲、快楽への無欲、節制、忍耐、 さらに質素、素朴、人づきあいの良さ、謙虚さ、遵法精神、バランスの良い性格、そのほかこれらに類することである。 人への愛(H)の例は、親切、平等、いかなることばも凌ぐ共同体的精神である。 このことについて簡単に述べても、不適切なことではなかろう。
 85したがって、まずどの家もだれのものでもなく、すべての人の共同のものではないものはない。 それは彼らが兄弟団として共同で生活する(I)ためのみならず、同じ情熱の外来者のためにも開放されている。
 86つぎに、彼ら全員に一つの財布しかなく、出費は共同で行う。 つまり衣服は共有、食糧も共有で、共同で食事をする習慣を守る。 実際にこれほど共同の住居で、共同の生活をし、共同の食事をする習慣を実行しているのは、ほかでは見つからないであろう。 それもわけなくてではない。彼らは一日働いて報酬として受け取るものはすべて自分のものとして取り込まずに、 その利用を望む人々のために共同のものとして差し入れ、自分たちによって利益が得られるように備える。
 87病人たちは何も生産できないからといって疎かにされることなく、 治療に必要なものは、共同資金の中にいつでも使うことができるものがあり、 何の心配もなく大金でも使うことができる。 老人たちには尊敬と配慮がなされるが、 それも両親が年老いて実の子供たちからまったく寛大に無数の手の働きと気配りをもって世話を受けるような尊敬と配慮である。
 88ギリシアの凝った雄弁術とはほど遠いこのような善徳の選手を、この哲学は育成するが、 これは訓練として賞賛すべき実践を提示し、こうして何ものにも隷従しない自由が確保される。 89その証拠に、時代ごとに相異なる性格と傾向を賦与された数多くの権力者たちがその地方に立ったが、 そのある者は野獣の耐えられない残忍に向かってしのぎをけずって競い、 極悪非道の限りをつくし、従属する民を大量虐殺し、 あるいは肉料理人のように生きながら彼らの肢体を切り刻み、 彼ら自身人間界の見張りである正義そのものによって同じ災いにあわせられるまで、やめようとはしなかった。 90またある者は激怒と憤懣をほかの悪の様相に変えて、 言い表すことのできない苦々しいことに務め、穏やかに語り続けながら、 優しい声の偽善の陰に深い憎悪の念を示し、毒の歯をもつ犬のようじゃれ、不治の悪の発起人となり、 町ごとに自分たちの不敬虔と非人間性の記念として、苦しんだ人々の忘れることのできない災難を残した。 91しかし、その彼らのだれも、なかでもとりわけ残忍な者やきわめてずるく、 信用できない者でも、前に述べたエッセネ人、または聖なる人々の集団には非難することができなかった(J)。 逆にその皆がこの人々の善徳のために力を失い、彼らを本性上自主独立の人、自由人のように扱い、 彼らの共同の食事や、どんな表現も凌ぐ共同生活を賞賛した。 これは、完全で、大いなる幸福の生活のきわめて明らかな例証である。」

 若干の解説
 この記述には、死海文書にある記述と通じるものがある。それを幾つか指摘する。 (1QSは『教団規定(宗規要覧)』、1QSaは、『会衆規定』、 CDは『ダマスコ文書』、1QpHabは『第1洞窟出土ハバクク書注解』、1QHは『感謝の詩編』の略)
(A) 「彼らは、動物をいけにえにすることによるのではなく、 自分の心を聖なるものとして備えることこそふさわしいと考えることによって、 最も優れた程度に神への奉仕に身をささげた人々だからである :アモス5:21−24; 死海文書を持っていた人々も、いけにえの動物はなくても、 それに代えて律法に忠実な生活と「唇の供え物」という祈りがあると考えている(1QS IX:3-5a, またIII:4-9参照)。
(B) 「・・・無法のゆえに、都市を逃れて村に住んでいる」 : 1QS VIII:13-16参照。
(C) 「彼らのある者は農民となり、ほかの者は平和に貢献する各種技能を働かせて、自分たち自身と隣人たちに役立つものとなっている。 彼らは銀、金を貯えることなく、利潤への欲望にかられて大きな土地を所有しようとはせず、 生活にどうしても必要なものだけを用意する」 : 1QS IX:21-23参照。 ただし、彼らの平和主義は、最終戦争に備えるという『戦闘規定』(1QM)といかに調和するのか、問題があるかもしれない。
(D) 「彼らはこれらの律法をたえず学ぶ」 : 1QS VI:7-8参照。
(E) 「7日目は聖なる日と考えられている」 : 安息日については、 CD X:14-23;XI:1-18参照。また後述するF・ヨセフスの『ユダヤ戦記』II:147も参照。
(F) 「年齢に従って順次若者が老人の下座に座し、ふさわしい作法を守って耳を傾ける」 : 席次が定められ、 それが厳しく守られていたことについては、1QS VI:8-9参照。
(G) 「彼らは神への愛、徳への愛、人への愛を三つの原則」 : 1QS IV:2-6と比較参照。
(H) 「人への愛の例は、親切、平等、いかなることばも凌ぐ共同体的精神・・・」 : CD VI:20-21参照;また1QS IV:5;X:17b-18a, 22a, 25b-26;XI:1-2も。
(I) 「共同で生活する」 : 1QS VI:2-8aなど、また後述するF・ヨセフスの『ユダヤ戦記』II:124-127参照
(J) 「エッセネ人、または聖なる人々の集団には非難することができなかった」 : 死海文書を持っていた人々にも、 その歴史の中で外部からの迫害、また内部紛争がなかったわけではない(1QpHab;1QH参照)。

 フィロンもユダヤにエッセネ人と言われる人々が4千人以上いて、都市をはなれて、村々に住んでいるという。 彼らは特に清貧と貞潔、隣人愛に優れ、その著しく高貴な倫理性に彼らの特徴がある。 そのため、彼らは兄弟的絆でかたく結ばれ、共同体を形成している。 フィロンは誇りをもって、この高潔なユダヤ人の一団を「自由人」として紹介している。 これは、キリスト教の修道者、あるいは佛教の雲水こそ自由人なのだという考えに通じる。


 (3)フラヴィウス・ヨセフス
 西暦37年頃、エルサレムで生まれたヨセフスは、66―70年、ローマと交戦中投降して相手側につき、 ローマ皇帝の家族、フラヴィウス家の歴史家として迎えられた。 彼はローマで『ユダヤ戦記』、『ユダヤ古代誌』などユダヤの歴史を書いて残した。 その中には歴史的に信憑性の高い記事も多くあり、それは新約時代史の主たる資料とされてきた。 彼は100年頃死んだ。エッセネ派についてあちこちで触れられているが、 最も詳しく述べる『ユダヤ戦記』第2巻の119−161を紹介しよう。

 『ユダヤ戦記』II:119-161
 「[貞潔](2)119実際に、ユダヤ人の中には三つの流派の哲学があり、 第一はファリサイ派、第二はサドカイ派、第三は尊厳を重んじていると思われており、エッセネ派と呼ばれている。 この彼らはユダヤ民族に属し、ほかのユダヤ人以上に強い相互愛に結ばれている。 120彼らは快楽を悪として退け、節制と情念におぼれないことを徳とみなしている。 彼らは結婚を蔑視するのであるが、まだ習熟するに適した柔軟な他人の子供を養子として同族となし、彼らの習慣に従って養成する。 121彼らは結婚とそこから生ずる出産を拒絶はしないが、女の無節操を警戒し、 どの女も一人の男に忠実を守らないと信じ込んでいる。

 [清貧](3)122富を軽蔑する彼らの共同生活は感嘆すべきもので、 彼らの中のだれもほかの者より豊かであることはなかった。 この流派に入る者は教団に財産を没収させる規則があり、だれを見ても貧困のゆえに惨めであったり、 富のゆえに優れている者はなく、各自の所有物を持ち寄って、皆があたかも兄弟であるかのように一つの財産としている。 123彼らはオリーブ油を汚れたものとみなし、 だれかがうっかりしてその油に塗れると、体を洗う。 彼らは皮膚を乾いたまま保ち、いつも白衣をまとうことにしていたからである。 共同財産の監督は挙手によって選ばれ、各自が皆のためにいろいろな職務に例外なく割り当てられている。

 [共同生活](4)124彼らが住んでいるのは一つの町だけではなく、各地に多く居住している。 彼らの持ち物はすべて、ほかのところから来る同心者にも同様に、 自分のものとしてよいかように提供されており、彼らは以前に会ったことのない人々のもとにも、知り合いであるかのように入る。 125それゆえにまた、彼らは旅をするとき、強盗を警戒して武装する以外には何も持たずに行く。 町ごとに特に来客のために教団の係りが指名され、衣類そのほか必要なものを差し出すことになっている。 126彼らの身なりと振る舞いは、恐れをもって教師に教育される子供に類似している。 彼らは衣服にしても履物にしても、すっかり擦り切れたり、時間をかけて使い古したりしなければ変えることはない。 127彼らは互いには売り買いせず、各自は自分のものを必要する人にそれを与え、 その人から自分の必要とするものを受け取る。 さらにまたこの相互交換ということなしでも、支障なく彼らはどの望む相手からでも物をもらうことができる。

 [宗教生活](5)128神聖なものに対する信心となれば、独特なものである。 太陽が昇る前にはいかなる世俗のことも口にせず、それに向かって昇るのを嘆願するかのように先祖の祈りを幾つか唱える。 129その後、各自は自分が熟知する手仕事につくよう監督によって遣わされる。 5時まで熱心に作業し、再び同じ場所に集まり、白い亜麻布を腰にまとい、こうして冷水で体を洗う。 この沐浴の後、彼らは特別な場所に集まる。ここには信仰を異にする者はだれも入ることが許されない。 ただ清くなった者のみが、あたかも聖なる空間であるかのような食堂に入る。 130彼らが沈黙して席につくと、パン焼き係りは順序正しくパンを配り、料理係りは一品の小鉢を各人に配る。 131祭司が食前の祈りを唱えるが、祈りの前に食べることは許されない。 朝食を食べると、祭司は再び祈りを唱える。その始めにも終わりにも、彼らは命の与え主として神を賛美する。 その後、彼らは衣を聖なるものであるかのように脱ぎ、再び仕事に戻って夕に至る。 132同様に戻ってきて夕食をするが、彼らのもとに行きずりの旅人がいれば、その客人と席を共にする。 いかなる叫びも騒ぎもこの家を冒すことがなく、彼らは規律によって発言を互いに譲りあっている。 133内部にいる人々の沈黙は、外から来る人々には恐ろしい神秘のように思われる。 その原因は不屈の節度にあり、彼らの飲食が適度に計算されていることにある。

 [彼らの特徴](6)134ほかのことについては、彼らは監督の指令なしには何もせず、 ただ二つのことは彼ら自身によってなされる。つまり扶助と憐憫である。 助けを請われるときには、それがふさわしい人々なら助けること、 また何も持たない人々に食べ物を差し出すことは彼らに任せられている。 だが、親族への贈り物は、上に立つ者たちの承認なしには行うことが許されてはいない。 135彼らは自分の怒りを正しく制御し、激情を抑える達人、忠誠の師範、平和を造る職人である。 彼らが話す言葉はすべて誓いよりも力強く、彼らは誓約することを偽証することより悪いと考えて、控える。 彼らが言うには、神を持ち出さなければ信じられない人は、すでに自分を罪ありと宣告しているからである。 136彼らは、ことのほか古人の著作に情熱を傾け、特に魂と体の利益になるものを選ぶ。 そうしてそこに病いの治療のために薬用の根や石の特性を学び取る。

 [入会](7)137この派への入会志願者はすぐには入会を許されず、 1年間外にとどまって、小さな斧、前に述べた腰帯、白い衣を与えられて同じ生活様式に服する。 138この期間中節制の修練を終えると、彼らの生活形態に近づき、清めのための一段と清い水に与るが、 まだ共同生活には与らせてもらえない。克己の証しを立てた後、さらになお2年間人柄を試され、 ふさわしい者であるとわかると、共同体に受け入れられる。 139しかし、共同の食物に触れる前に、彼は正会員の前で荘厳な誓いを立てる。 まず神聖なものに対して敬虔であること、つぎに人間に対して正義を守り、 自発的であろうと、命じられてであろうと、だれにも危害を与えないこと、常に不正な人々を憎み、義人たちと共に戦い、 140常にすべての人に、特に権力者たちに信を貫くことを誓う。 これは、神を差し置いて支配はだれのものにもならないからである。 また自ら支配することになれば、決して権力を乱用することなく、 衣装や何らかいっそうの装いで配下の者たちを曇らせることもないと誓う。 141常に真理を愛すること、欺瞞者をくじくこと、 盗むことのないように手を、不純な利益を求めないように魂を清く保つこと、 教団の会員には何事も隠さず、他方彼らのことは何ひとつ、死の脅迫を受けても明かさないことを誓う。 142さらに彼らは、教えを彼ら自身が受け取ったものとは異なるようにはほかのだれにも受け渡さないこと、 強奪を断つこと、自分たちの教団の文書も天使たちの名前も同様に保持することを誓う。 これらの誓いによって、彼らは入会者たちの忠誠が最終的に確証されたものとする。

 [追放](8)143重大な過失に落ちた者は教団から追放される。 追放された者はしばしば最も惨めな最期を迎えて滅びる。誓いと慣習に縛られて、ほかの人々と食物を共にすることができず、 草を食べるまでになり、飢えによって体は衰え滅びる。 144まさにそれゆえ、彼らは憐れに思い、息も絶えだえになっているその多くの者を受け入れるが、 それは犯した過失について死ぬほどまでの責め苦を受けたことで十分と考えるからである。

 [厳正さ](9)145裁判に関して、彼らは厳正であり、公平であり、 100人を下らない集会でしか判決を言い渡さないが、彼らの判決は不可変である。 彼らの中で、神のつぎに律法を授与してくれた者の名が大いなる畏敬の対象となっており、 この名を冒涜する者はだれでも死をもって罰せられる。 146彼らは長老たちと多数の者たちに従順することを務めと心得ており、 10人が同席しているとき、ほかの9人が同意しなければ、だれも話さない。 147また彼らは人々の中で、あるいは右側に唾を吐かないように注意している。 また彼らにはすべてのユダヤ人と比べて際立って、7日目に就労することが禁じられており、 彼らはその日には火をつけることがないように、自分たちのために前日に食べ物を準備するだけでなく、 何か器を動かしたり、排便することもあえてしようとしない。 148他の日には、彼らはくわで1ポディアイオス(30cmほど)の深さの穴を掘り、 ―これは彼らにより新参者に与えられる小さな斧―、神の光線を侮辱しないように、 衣で覆い隠して、そこに向かってしゃがむ。149その後で掘り起こした土を穴に押し戻す。 彼らはいっそう人影のない場所を選んで、これを行う。 排泄は自然であるのに、その後彼らは汚されたかのように身を洗うのを慣わしとしている。

 [徹底さ](10)150彼らは修業生活の期間にしたがって4つのくじに分けられており、 後輩は先輩の下位にあって、後者が前者に触れることでもあれば、前者は異人とでも付き合ったかのように、自分を洗い清める。 151その多くが百歳以上に達するほど彼らは長寿であるが、 それは質素で規則正しい生き方によると、わたしには思われる。 しかし、彼らは命の危険もものともせず、気高い信念をもって苦しみを克服し、 誉れあることなら死も、死なずに生きつづけるより優れていると考える。 152ローマ人との戦いはその彼らの心をくまなく証明した。 その間、捻られ、曲げられ、燃やされ、潰され、あらゆる拷問の道具にかけられて、 律法を授与してくれた者を冒涜し、禁じられているものを食べるようにされても、 彼らはこのどれもあえて甘んじ受けようとはせず、拷問する者らにへつらおうとすることもなければ、涙を流そうとすることもなかった。 153苦痛の中で笑みを浮かべ、拷問の執行人たちをからかい、勇敢にも魂を差し出す。 それはこれを再び取り戻す者であるかのようである。

 [魂の不滅と死後の報い](11)154実際に彼らの間に確固たる信条があって、 それによると肉体は滅び、その物質は移り変わらないものではないが、魂は不死であって、いつまでもとどまるものであり、 最も軽いエーテルから下ってきて、何か物理的に魅惑するものに引かれて、牢獄のような肉体に結びついているのだが、 155長い奴隷状態から解放されるかのように、肉の束縛から解かれると、 そのとき喜びを得て、天上へと昇っていく。彼らは、ギリシアの子らと同感して、善い魂たちには大洋の向こうに場所が、 それも豪雨にも、豪雪にも、酷暑にも襲われることなく、大洋から常に優しい西風が吹いて涼しい地が取ってあると公言している。 他方、悪い魂たちには荒れ狂っていて、その内部が絶え間ない懲罰に満ちた暗闇の洞窟があるとしている。 156わたしに思われるのは、ギリシア人も同じように考えて、 彼らが英雄とか半神と呼ぶ彼らの最も尊敬する人物たちには、福者たちの島々があるとし、 悪人たちの魂には地獄(ハデス)に悪者たちが行くところがあって、 そこでは神話の人物、シシュフォスやタンタロス、イクシオン、ティテュオスなどが苦しめられており、 こうしてまず魂が永遠であることを前提とし、そのためつづいて善徳を奨励し、悪徳を避けさせようとしている。 157実際に、善人はその死後であっても報いがあるとの希望によって、 いっそう善徳を積み、悪人もその衝動を、生きている間(その懲罰を)免れても、 その死後不死の懲罰に服すると予知することによって抑止する。 158魂についてのエッセネ人の神学とはこのようなものであり、 一旦彼らの知恵を味わった人々には抵抗し難い餌を投げかけている。

 [予知能力](12)159彼らの中には、聖なる書物やいろいろな清め、 預言者たちの訓話に訓練されて、また未来に起こることを予知することに長けた人々もいる。 彼らが予告することがあれば、誤ることは稀である。

 [ほかのエッセネ人の集団](13)160エッセネ人の集団としてほかのものもあって、 生活態度や習慣、規律をほかの者たちと同じように理解するが、結婚についての意見では異なる立場を取る。 実際に、結婚しない者は人生の最も重要な部分、つまり種の発展を断っており、 またさらにみなが同じ理解であるなら、種族は早急に消え失せると考える。 161しかしながら、彼らは結婚相手を3年間試し、 3回身を清めて、子を産むことができると証明すれば、妻として迎える。 妊娠した妻とは同衾せず、結婚するのが快楽のためではなく、子を産む必要性のためであることを示す。 沐浴は、女子は衣で身を覆って行い、男子は腰巻をつけて行う。これがこの集団の習慣である。」

 若干の解説
 このヨセフスの記述には、キルベト・クムランの発掘調査の結果や死海文書の記述と、 まったく同じではなくても、共通することが多い。その比較すべきところを幾つか指摘する。 (1QSは『教団規定(宗規要覧)』、1QSaは、『会衆規定』、CDは『ダマスコ文書』、11QTは『神殿の巻物』の略)
 [貞潔](2)
 「ほかのユダヤ人以上に強い相互愛」 : 光の子らとしての自分たちの間では相互に「愛し」、 闇の子らに対しては「憎む」集団である(1QS I:9;V:25a.25b-26; CD:VI:20-21;VII:1参照)。 「快楽を悪として退け、節制と情念におぼれないことを徳とみなしている」 : 彼らは〔淫らな目をもって歩む〕ことなく(1QS I:6)、 「偽りの霊」による「淫らな霊をもってなされる忌むべき行動と不浄の勤めによる汚れた道」(1QS IV:9-11参照)を警戒する。 「結婚を蔑視する」が、結婚を全面的に拒否するものではない (本書以下のno.160-181、また1QSa I:9-12参照。「女の無節操」:4Q184参照。 この本文は比喩的に何かか、誰かを指していうものであろうが、性差別的なものであることは疑いえない。
 [清貧](3)
 「富を軽蔑する」 : 彼らが富に警戒し、清貧を重んじたことについては、 「わたしは19邪まな18霊をもって妬むことなく、 19わたしの魂が不法の富を欲することもありません」(1QS X:18b-19)、 また同XI:1-2、CD IV:12b-19aなど参照。「一つの財産としていた」 : 私物を教団に提供し、 共有していたことについては、1QS I:12;V:2;VI:17-22参照。 「オリーブ油を汚れたものとみなし」については、 CD XII:15-17参照。他方、11QT XXI:12-XXII:16では新しいオリ−ブ油について言う。 ここでなぜオリーブ油で汚れると言われるのか、議論がある。 「白衣をまとう」 : 清さの証し : 出エ28:39―42では祭司の衣服。
 [共同生活](4)
 「各地に多く居住している」 : 彼らはエルサレムの町と決別して(1QS VIII:12b-14)、 ほかの町々に住んだ。 町に住んでいることを前提してのハラハー、 CD X:21;XI:5-6;XII:19参照。 それは、CDでは「宿営」といわれ(CD VII:6-7参照)。 彼らの共同生活については、1QS VI:2-8a参照。
 [宗教生活](5)
 「太陽が昇る前に・・・先祖の祈りを幾つか唱える」 : 日の出のときに唱える祈りは、4Q503にある。 「冷水で体を洗う」 : 彼らが沐浴を重視していたことは、キルベト・クムランの発掘によって、 その発達した水利システムおよびミクヴェ(祭儀用の浴場)によって確認された。 また、1QS III:4-5;IV:21の「浄めの水」、V:13の「水」、CD X:10-13の沐浴のためのハラハー、 またXI:21-22の「洗い」も参照。「食堂に入る」:彼らが宗教的な宴を行っていたことについては、 1QS VI:4-5;1QSa II:17-22参照、またキルベト・クムランに食堂と考えられる部屋が確認された。
 [彼らの特徴](6)
 「誓約することを偽証することより悪いと考え」 : CD XV-XVI参照。
 「病いの治療のために薬用の根や石の特性を学び取る」 : 彼らは治癒行為も行っていたらしい。11Q11参照。
 [入会](7)
 「入会志願者は・・・1年間外にとどまって、小さな斧、前に述べた腰帯、白い衣を与えられて同じ生活様式に服する。 ・・・さらになお2年間人柄を試され・・・」は、 1QS VI:13b-23aと比較参照。 ヨセフスによると、入会希望者は志願期1年、その後さらに2年(現在の修道会の修練期のようなものか)を経て、認められると、 誓約して会員となる。教団規定に「第2年」とあるのは、この2年の修練期の「第2年」のことであろう。 ヨセフス自身、志願期を少々体験した可能性がある。小さな斧については、後述。 「共同の食物に触れる前に、彼は正会員の前で荘厳な誓いを立てる」 : 正会員になるときの誓約については、 1QS I:16-26;II:1-18参照。この荘厳な誓約をもって、神との契約を結ぶ。 このようにこの教団は契約の民であると自認する。 また彼らは「新しい契約」の民だと自認する(CD参照)。正会員になったとき、彼らは私財を差し出す。 キルベト・クムランから発見されたコインは、そのとき差し出された金銭かもしれない。 このとき偽ったものについては罰則がある(1QS VI:23-24)。 「天使たちの名前も同様に保持する」 : 彼らは天の御使いたちと共にいると考えている : 「聖なる御使いたち」(1QSa II:8)など参照。
 [追放](8)
 「追放される」 : 教団規定の罰則(1QS VI:23b-26;VII:1-25)の中に追放も定められている。
 [厳正さ](9)
 「右側に唾を吐かないように注意している」 : 1QS VII:13参照、また会議中の発言についての罰則もある。 「7日目に就労することが禁じられており・・・」 : 彼らは安息日を重視し、安息日毎に唱える祈りをもつほどであった、 また就労を控えたが、これについてはCD X:14-23;XI:1-18参照。 「小さな斧」 : 第11洞窟で小さな斧が発見された。 この斧とヨセフスがいう小さな斧との関係については、 R.De Vaux, Une Hachette essénienne ?.VT, vol.9, 399-407参照。 「排泄」:11QTでは、便所はエルサレムの外にあるべきだとする。
 [徹底さ](10)
 [魂の不滅と死後の報い](11)
 彼らの徹底した克己の生活は、死後の生命についての確固とした確信なしには考えられないであろう。 その彼らの死生観については、 É.Puech, La croyance des esseniens en la vie future : immortalité, résurrection, vie éternelle?, Histoire d'une croyance dans le judaïsme ancien, 2 vol.Paris, 1993, ヨセフスのこの記述については、そのvol.2, 705-709参照)。
 [予知能力](12)
 死海文書中の預言書注解「ペシェル」参照。
 [ほかのエッセネ人の集団](13)
 墓地から男性のもならず、女性や子供の遺骨も発見された。

 ヨセフスも、高潔で諸善徳に優れたエッセネ人と言われる人々がいたことを伝える。 彼らは規則に基いて組織を形成し、共同生活を営んでいたが、それがどのようなものであったかを具体的に詳しく書き残している。


 総じてこれら古代の著作家の証言には、死海文書中の記述とキルベト・クムランの調査結果とあい通じるところが多くある。 しかし、彼ら著作家たち自身がエッセネ人であったわけではなく、 エッセネ人について知りえた情報を、いわば外部者の立場から伝えている。 それゆえ、発掘調査の結果と死海文書そのものが明らかにするものとの比較は注意深く進めなければならない。 つまり、死海文書を所有していた、クムラン遺跡の住民は、 これら古代の著作家たちが伝えるエッセネ人だと単純に同一視することはできない。 しかし、そのエッセネ人と無関係ではなさそうである。現在のエッセネ派説も、これらのことを意識して提唱されている。 またこの意味で、修正エッセネ派説は、少なくともたたき台として注目に価する。 

 主な参考文献
 土岐健治「エッセネ派に関する一考察」、『言語文化』17、1980、一橋大学語学研究室、22−38;
 ヨセフス全集『ユダヤ戦記』土岐健治訳、T(1982); 同U−V(1985)、 387−395頁(フィロン、大プリニウスの著作およびヨセフスの『ユダヤ古代誌』の関連箇所の邦訳を掲載)。
 Adam, A., Antike Berichte über die Essener, 2., neubearbeitete und erweiterte Auflage von C.Burchard, Berlin -New York, 1972;
 Beall, T. S. , Josephus' Description of the Essenes Illustrated by DSS, SNTSM 58, Cambridge, 1988
 Vermes, G. , & Goodman, M. D. , The Essenes According to the Classical Sources, Sheffield, 1989

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