TOP> 死海文書・聖書外文書研究>

死海文書入門講座W 和田 幹男
BACK
W 死海文書概要
目  次
1)クムラン洞窟およびほかの各地で発見された文書
2)死海文書の略号
3)死海文書の分類
(1)聖書関連文書
(イ)イエス時代の聖書を求めて
(ロ)死海文書中に新約聖書の本文があったかどうか
(ハ)死海文書中の旧約聖書
(ニ) 死海文書中の偽典
(ホ) 死海文書中の聖書本文の意義
A)本文批判上の意義
B)正典を考える上での意義
(2)教団関連文書 (X 死海文書概要2 へ


 

 1947年以降、ワディ・クムラン近くの洞窟で発見された写本断片について、 それがどの時代の、いかなる人々の手にあったものかのヒントを求めて、 キルベト・クムランの発掘調査および古代の著作家の証言を調べてきた。 その結果、発見された写本断片は前2世紀後半から西暦1世紀中頃まで、 ほぼイエス時代のユダヤ教徒の一派、エッセネ派ないしこれと関連のある人々のものではないかということになった。
 時代測定のためのカーボン・テストも、太古の有機物なら有効だが、誤差があるので、 写本断片作成の時期を厳密に知るためにはあまり役に立たないが、おおよそその時代の写本であることを示した。 出土した貨幣や陶器がその判断の目安となった。
 ワディ・クムラン近くの洞窟における写本断片の発見は、ユダ砂漠一帯の洞窟探索や遺跡調査を盛んにした。 こうして各地で写本断片、遺構、遺品、墓地の発見が相次いだ。 20世紀後半は、その歴史資料収集にとって実り豊かな時代であった。 写本断片を出土したのは、クムランの洞窟のほか、 南方にあるワディ・ムラバアトやナハル・ヘヴェル、ナハル・ツェエリム、ナハル・ミシュマルの洞窟やキルベト・ミルドやマサダの砦で、 また北方ではサマリに近いワディ・ダリイェも加えることができる。 死海文書ないし死海写本とは、このユダ砂漠一帯で見つかったすべての古文書の総称である。 ここでは11のクムラン洞窟を中心に、各地で発見された写本断片とは、いかなる種類の古文書の断片か、その概要を紹介する。 その前にクムランの洞窟それぞれで見つかった主な文書を概観し、それと関連のある古文書およびユダ砂漠の各地での発見にも触れておく。 この古文書を指摘するための略号を説明し、この膨大な古文書の分類について述べる。 この分類にしたがって、続いて聖書関連文書として正典聖書の本文として、いかなる写本断片が入手されたかを概観し、 またこの際、偽典の写本断片についても触れる。その上で、こうして得られた新しい情報の意義を、 本文批判の観点と、正典ということの観点から考える。続いて教団関連文書として、 聖書の正典、偽典の本文以外の多種多様な文書を紹介する。

 1)クムラン洞窟およびほかの各地で発見された文書

 第1洞窟からは、遊牧民の少年が最初に発見した7つの巻物が届けられた。 それは旧約聖書のイザヤ書全書のヘブライ語本文(1QIsaa)、 もうひとつのイザヤ書のへブライ語本文断片(1QIsab)、 教団規定(=宗規要覧、1QS)、戦闘規定(=戦いの書、1QM)、ハバクク書注解(1QpHab)、 外典創世記(1QapGen)、感謝の詩編(1QH)である。 その中、イザヤ書全書、教団規定、ハバクク書注解は壷に入れられているところを発見され、そのため保存状態も比較的良かった。 またそれはクムラン教団にとっても重要な文書であったことがうかがわれる。この7書はまもなく写真に撮られ、公表された。
 この洞窟はどこにあったか、あとで学者たちによってつきとめられ、調査された。 そのとき僅かだが、残っていた写本破片が収集された。 その中には創世記や出エジプト記などヘブライ語聖書、ミカ書などの聖書注解書、ヨベル書などの偽典、 それに会衆規定(1Qsa)、祝祷集(「祝福の言葉」、1Qsb)など、これまで未知であった文書の断片がある。
 1952年に第2洞窟が予期せず発見された。 この洞窟からは、30あまりの写本断片が収集された。 その中には旧約聖書の創世記、出エジプト記など、それに第2正典(旧約続編)のシラ書のヘブライ語本文断片などがある。 この発見は、ほかの洞窟にも写本断片があるのではないかと思わせた。 この機会に付近の洞窟がくまなく探索されることとなった。
 第3洞窟が発見されたが、そこでは幾つかの写本断片のほか、特に青銅の巻物と言われる文書が入手された。 これは薄い青銅の上に宗教的内容ではなく、財宝と、その隠されている場所が列挙されているものである。 それは実在した財宝なのか、それとも架空なのか、またその場所の検証も試みられたが、わからずじまいで、 死海文書中最も謎めいた文書である。この青銅の巻物は注意深く、開陳され、アンマンにある考古学博物館に保管されている(写真下)。

 同じ年にクムラン遺跡の近くで第4洞窟が発見された。 これは最も重要な洞窟となる。そこにあった写本断片の数量も最も多く、その数は550を超える。 その種類も多様で、旧約聖書正典のほとんどすべての書がヘブライ語本文で出土し、ギリシア語70人訳本文の断片も見つかった。 それに第2正典(旧約続編)や偽典の本文、それにこれまで未知の文書の写本断片も入手された。 その中には教団の創設者が書いたと思われる初期の手紙もあった。 また教団の預言書注解や第1洞窟出土の教団規定や戦闘規定の多数の写しなどが獲得された。 この洞窟で見つかった写本は壷に入れられてはおらず、そのほとんどが断片的で、保存状態が悪く、解読には手間がかかった。 しかし、その解読が進むにつれ、当時の宗教事情について新して興味深い発見をつぎつぎともたらしてくれた。 クムラン遺跡の近くに、このような多様な文書があったこの洞窟はこの教団の図書室だった可能性がある(写真下は第4洞窟内部)。

 第4洞窟と関連して第5、第6洞窟が発見されたが、僅かな写本断片を出土したに過ぎない。
 1955年、クムラン遺跡の近くで発見された第7、第8、第9、第10洞窟も、僅かな写本断片しか出土しなかったが、 第7洞窟出土の幾つかの小片は、新約聖書の写本断片ではないかということで話題になった。
 1956年に発見された第11洞窟は、第1洞窟と同様に巻物を含む重要な文書を出土した。 その中に重要なものとしては詩編の巻物や外典詩編、ヨブ記のタルグム(アラマイ語訳)がある。 それに死海文書中最大の文書である神殿の巻物も、ベツレヘムのカンドー氏宅にあったところ獲得されたものだが、 元来第11洞窟にあったものと考えられている。

 ここで特筆しなければならないのは、19世紀末にカイロの旧ユダヤ教会堂のあったゲニザ(使いふるされた文書の保管用の蔵) で発見されたダマスコ文書(CD)である。その複数の写本断片がクムランの洞窟で発見された。 それゆえ、ダマスコ文書も元来このクムランの教団にあった文書として、死海文書の中に数えられている。

 このクムランの洞窟のほか、ユダ砂漠の各地で写本断片が発見されたが、その主なものを指摘しておく。 まずワディ・ムラバアトの洞窟から旧約聖書や世俗文書の写本断片が見つかったが、 特に注目されるのは旧約聖書の12小預言書のヘブライ語本文である。 これは西暦132−135年、バル・コホバに率いられたローマに対する最後の反乱軍が利用していたもので、 これはマソラ本文を提示している。公表は、DJD II。

 死海西岸のオアシス、エン・ゲディの近くに西から切れ込むナハル・ヘヴェル (ワディ・ハブラとも言う)にある洞窟からも幾つかの興味深い出土品があった。 ここはイスラエル領であるため、イスラエル人の学者によって前述のバル・コホバの手紙などが発見され、 その当時の歴史を研究するための貴重な資料が得られた。聖書研究にとっては、 ここで12小預言書のギリシア語訳本文が得られたことである。これは1952年頃、 遊牧民によって届けられたものだが、その後この本文の研究によって、これが70人訳とも異なり、 これまでテオドティオン訳として知られたギリシア語訳と同じ特徴を示すものであることがわかった。 これが契機となって、ギリシア語訳聖書の校訂の歴史など新しい事実が明らかになってきた。

 ナハル・ヘヴェルの洞窟調査についての参考文献は、
 M・アヴィ・ヨナほか編『聖書考古学大事典』、1984年、講談社、「恐怖の洞穴」と〔書簡の洞穴〕の項目
 Y・ヤディン著、小川英雄訳『バル・コホバ』、山本書店、1979年

 また死海南部の西岸から少し西にあるマサダの砦からも、写本断片が入手された。 その中には旧約続編のシラ書のヘブライ語本文の断片も興味深いが、 特に安息日のいけにえの賛美という典礼の祈りが注目すべきものであろう。
 これらユダ砂漠の各地で発見された写本断片の所有者は、 キルベト・クムランにいた住民といかなる関係にあったのか、問題になる。 キルベト・クムランが西暦70年直前にローマ軍によって破壊されたが、 そのとき難を逃れて、その住民の一部がマダサなどユダ砂漠の各地に身を寄せたことも考えられる。 そのとき、自分たちがもっている聖書などを携えていったのだろうか。 他方、キルベト・クムランの住民と同じ派の人々が、ユダ砂漠の各地にいたことも考えられる。

 マサダについての参考文献は、
 Y・ヤディン著、田丸徳善訳『マサダ』―ヘロデスの宮殿と熱心党最後の拠点―、山本書店、1975年。
 Masada I-VI, The Yigael Yadin Excavations 1963-1965 Final Reports, Jerusalem, Israel Exploration Society), 1989-1999

 なお、サマリアに近いワディ・ダリイエの洞窟からは、前3世紀以前のペルシア時代の出土品が多く入手された。

 これら写本断片の総数は大小あわせて、およそ800を超える。 これらはほとんどすべておよそイエスとその弟子たちが生きていた時代に、またその生きていた場所の近くにあった文書である。 しかし、これらの文書の中には、エルサレムなどユダヤの主要部から持ってこられたものも多数ある。 この事実だけでも、イエスを知るため、またその言葉と活動を伝える新約聖書を正確に深く理解するために、 死海文書がどれほど重要なものであるか示している。


 2)死海文書の略号

 およそ800を超える写本断片を整理するために略号が用いられるが、その略号について予め説明しておこう。 その発見当初から写本断片には1Q1、1Q2、1Q3・・・2Q1、2Q2、2Q3と番号がつけられた。 この1Qはクムランの第1洞窟、2Qは第2洞窟のことで、このように11Qまである。 そのあと1、2、3とあるのはそのそれぞれの洞窟で発見された写本の番号である。 このように最初に発見場所が示され、そのあとそこで発見された写本の番号がつづく。
 この略号では文書の内容が示されないので、整理するには不十分なことがわかった。 そこで、もう一つの略号も用いられる。たとえば、1QIsaのように、 1Qは第1洞窟、Isaはイザヤ書のこと、これは第1洞窟で見つかったイザヤ書の写本ということ。 また同じイザヤ書の写本断片でも、複数ある場合、1QIsa、1QIsaと、 上付けのアルファベットで示される。これは聖書本文の場合だが、聖書以外の多様な種類の書物もあり、 当然その種類と文書にも略号がある。たとえば、1QpHabのpは、ペシェル(聖書注解)のことで、 それは第1洞窟出土のハバクク書注解を意味する。 このようにLXXはギリシア語70訳聖書、Tgはタルグム(アラマイ語訳聖書)を意味する。 聖書の書名の場合、そのラテン語の書名の略号が用いられることが多い。 この聖書正典、旧約聖書続編以外の書名およびその略号については、追って紹介し、説明する。
 このもう一つの略号は5つの要素から成っている。 第1はその写本の材料で、通常皮革紙である。この場合、省かれるが、ほかの場合、 p.papはパピルス、cuは青銅などである。第2は出土した場所。 Qはクムランで、1Qはその第1洞窟、2Qは第2洞窟と11Qまである。 そのほかMasはマサダ、Murはムラバアト、Hevはヘヴェル(ナハル・ヘヴェル)、 Cはカイロなど、第3は文書の内容で、旧約正典、第2正典書の場合、すでに述べたとおり、そのラテン語名の略号である。 その前にPaleo(古書体)、LXX(ギリシア語セプトゥアギンタ)、Samar(サマリア五書)、 p(ペシェル=注解)、Tg(タルグム)、ap(偽典)がつくことがある。旧約の偽典もラテン語名の略号で指摘される。 そのほかの書については、英語またはフランス語の書名の略号が用いられることが多い。 これは追って紹介する。第4に同じ書の写しが複数あるとき、上付きの小さなアルファベトで示される。 第5はその写本の言語が指摘される。ヘブライ語は示されず、 ar,aramはアラマイ語、arabはアラビア語、cpa(パレスティナ・キリスト教徒のアラマイ語)、 gr(ギリシア語)、lat(ラテン語)、nab(ナバタイ語)。


 3)死海文書の分類

 大小あわせて800を超える死海文書は、聖書関連文書(Biblical Texts and Apocryphal Texts)と 教団関連文書(Sectarian Texts)に分けることができる。 前者は、まず聖書の本文そのもので、これはわれわれの聖書の中にある旧約聖書のヘブライ語本文の写本を中心に、 アラマイ語本文、ギリシア語訳旧約聖書本文、タルグムと言われるアラマイ語訳聖書本文がある。 これは死海写本の4分の1以上を占める。それにキリスト教の旧約正典、第2正典聖書(外典)としては受容されなかったが、 愛読されて古代訳で伝わってきた偽典のヘブライ語またはアラマイ語本文の写本もある。 これも前者に含めて取り扱わなければならない。これらすべての書の中から、 時代が下がってからユダヤ教とキリスト教の正典が決定されることになるからである。
 他方、後者はクムラン教団が用いていた文書で、この教団の規則や歴史、思想、祈りや典礼文、聖書解釈を内容とする。 その中にこの教団が発生する以前からあったものもあれば、この教団の中で生み出された文書もある。 これらの文書は、死海文書が発見されてはじめて知られるようになったもので、 当時の宗教事情のみならず、イエスや新約聖書、初期キリスト教についても新しい事実を明らかにしている。 ここではまず聖書関連文書を紹介し、そのあと教団関連文書を概観してみる。

 (1)聖書関連文書

 (イ)イエス時代の聖書
 聖書といえば、それはわれわれの旧約聖書のことである。イエス時代以前では、聖書と言えばこの聖書しかなかった。 この聖書も、イエスをキリストと信じるキリスト教徒によって聖書として受容され、 ここで新約聖書に対して旧約聖書と呼ばれることになった。 イエスの時代も、その弟子たちの時代も新約聖書はなかった。 彼らが読んだのはわれわれの旧約聖書であった。 その聖書がイザヤ書を除いて断片でしかないが、多数発見された。これは驚くべきことである。
 死海文書中の旧約聖書と言っても、注意すべきことがある。 われわれが旧約聖書という場合、 それはおよそ西暦2世紀の終わりにこの聖書を受容することになったキリスト教の観点から言っているのであって、 それがイエス時代のユダヤ教にそのままあてはまるかというと、必ずしもそうではない。 キリスト教の中でプロテスタントは旧約聖書として39書を、 カトリックはそれに7書(第2正典ともいう)を加えて46書を受容している。 このことについては、本ホーム・ページの聖書研究の中、プロテスタントとカトリックの旧約正典の比較を参照。 このように教会という信仰共同体によってその信仰と倫理の基準として受容された書を正典書(Canonical Books)、 そのリストを正典(Canon)という。 その数は相違するが、正典ということを重んじることで、カトリックもプロテスタントも、またユダヤ教も一致している。 ただし、イエス前後の時代のユダヤ教にこの39書ないし46書が正典書として確立してあったのかというと、 確立はしていなかったようである。 実際に死海文書中には、キリスト教が正典書とはしない多くの宗教書の写本断片もあり、 それは外典(プロテスタントにおけるアポクリファ、旧約続編)とか、 偽典(プロテスタントにおけるプセウド・エピグラファ、カトリックにおけるアポクリファ)とか言われる。 この外典とか偽典とか言われる書の中には、当時のユダヤ教によって重要視されているものもあり、 正典として考えられてはいなかったのか、どうか問うことができるものがある。
 いずれにせよ、ここで旧約聖書の正典、外典、偽点と区切るのは、キリスト教の観点からであり、 便宜上この観点から死海文書中の旧約聖書について述べることにする。

 (ロ)死海文書中に新約聖書の本文があったかどうか
 他方、新約聖書の写本断片もあるのではないかと提案されたことがある。 1972年、ローマ教皇庁聖書研究所のパピルス学専門家、イエズス会士J・オハラハンは、 7Q5をマルコ福音書第6章52ー53節のギリシア語本文の断片ではないかと提案した。 そのほかパウロの手紙の写本断片もあるのではないかと提案した。 これはエルサレム在住の死海文書研究の専門家ドミニコ会士P・ベノアによって検証され否定された。 ところが、1996年ドイツのパピルス学専門家C・P・ティエーデは、 オックスフォードのマグダレン・カレジ所蔵の古パピルスと7Q5を比較して、オハラハン説を支持した。 これがジャーナリズムにも取り上げられ、それが正しいと、 これまでの新約聖書学が新約各書の作成年代について教えてきた常識も見直す必要があるのではないかと吹聴された。 しかし、7Q5はあまりにも小さな断片で、マルコ福音書の断片と見なすには耐えられるものではない。 それゆえ、この提案は今日だれもまじめに取り上げない。 死海文書の中に新約聖書のギリシア語本文はなかったものとして、今後、論を進める。
 死海文書中の新約聖書本文についての主な参考文献。
  1. J.O'Callaghan, "Papiros neotetamentarios e la cueva 7 de Qumran", Biblica 53(1972) 91-100。
  2. C.P.Thiede, "7Q-Eine Rückkehr zu den neutestamentlichen Papyrusfragmenten in der siebten Höhle von Qumran", Biblica 65 (1984) 538-559
  3. Id., ll più antico manoscritto dei vangeli?, subsidia biblica 10, 1987, Rome
 この提唱に対する反論については、
  1. P.Benoit, Nouvelle note sur les fragments grecs de la grotte 7 de Qumrân, RB 80(1973)5-12
 また、オットー.ベッツ/ライナー.リースナー共著、清水宏訳『死海文書』−その真実と悲惨ー、 1995年、リトン社、229−248頁参照。

 (ハ)死海文書中の旧約聖書
 旧約聖書の39書はすべてヘブライ語で書かれているが、死海文書の中にはエステル記を除いてそのすべてがある。 イザヤ書については、前述したとおりその全書を載せた写本が発見された。 そのほかの正典書については、写本断片でしかなく、それも場合によってきわめて小さい。 しかし、小さな断片でも、その書が当時、キルベト・クムランにあったという事実を示していて貴重である。 他方、同じ書について複数の写本断片がある場合もある。 死海文書中の聖書写本の数量を示すと、以下のとおり。 聖書の書名は本ホーム・ページの聖書研究の中の「聖書に含まれる書名一覧」に基いて、旧約続編を含む旧約全書の書名をここに列挙する。 そのそれぞれの書の死海写本中の写本断片数を示す(É.Puech 論文による)。

旧約聖書
(書名) (ラテン語名) (略号) (死海文書中の写本数)
律法(モーセ五書) 総数89ないし92
創世記 Genesis Gen 19(または22)
出エジプト記 Exodus Exod 17(その中の2つはGen-Ex)
 LXXが1
レビ記 Leviticus Lev 13
 LXXが1、Targumが1
民数記 Numeri Num  8(その中の2つはLev-Num)
 LXXが1
申命記 Deuteronomium Dt(Deut) 32
 LXXが1
ヨシュア記 Josua Josh  2
士師記 Judices Idc  3
ルツ記 Ruth Ruth  4
サムエル記上下 Samuel I−II 1−2Sam  4
列王記上下 Regum I−II 1−2Reg  4
歴代誌上下 Chronica I−II 1―2Chr  1
エズラ記・ネヘミヤ記 Esra−Nehemia Ezra,Neh  1
エステル記 Esther Esth  0
ヨブ記 Iob Job  4
 Targumが2
詩編 Psalmi Ps 34
箴言 Proverbia Prov  2
コヘレトの言葉 Qohelet(Ecclesiastes) Eccl  2
雅歌 Canticum Canticorum Cant  4
イザヤ書 Jesaia(Isaias) Isa 21
エレミヤ書 Jeremia Jer  6
哀歌 Threni(Lamentationes) Lam  4
エゼキエル書 Ezechiel Ez  6
ダニエル書 Daniel Dan  8
12小預言書まとめて  8
 ギリシア語カイゲ校訂文が1
 ホセア書 Hosea(Osee) Hos
 ヨエル書 Joel Joel
 アモス書 Amos Amos
 オバデヤ書 Obadia(Abdias) Obad
 ヨナ書 Jona Jon
 ミカ書 Micha(Michaeas) Mic
 ナホム書 Nahum Nah
 ハバクク書 Habakuk(Abacuc) Hab
 ゼファニヤ書 Zephnia(Sophonias) Zeph
 ハガイ書 Haggai(Aggaeus Hag
 ゼカリヤ書 Sacharia Sach
 マラキ書 Maleachi Mal
旧約聖書続編(第2正典、アポクリファ)
トビト記 Tobias Tob  5
ユディト記 Iudith Jdt  0
エステル記(ギリシア語 Esther Esth  0
マカバイ記1 Maccabaeorum Liber I 1Macc  0
マカバイ記2 Maccabaeorum Liber II 2Macc
知恵の書 Sapientia Salomonis Sap  0
シラ書[集会の書] Sappientia Jesu filii Sirach
 (Ecclesiasticus)
Eccli  1
 (マサダ出土あり)
バルク書 Baruch Bar
エレミヤの手紙 Epistula Ieremiae Ep Jer  1
ダニエル書補遺  0
 アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌 Oratio Azariae et Canticum trium sociorum
 スザンナ Susanna
 ベルと竜 Bel et Draco
エズラ記(ギリシア語) Liber Esdrae III
エズラ記(ラテン語) Liber Esdrae IV
マナセの祈り Oratio Manasse
合計 217(または220)
およそ65%が第4洞窟出土

 ここに示した各書の写本断片のほかに、 テフィリーム(英語でPhylactery、右腕と額につけるための聖句の入った経札)28個や メズーサ(戸口につける聖句の入った小箱)8個、それに聖書のパラフレーズ(書き換え)、 ペシエルと言われる聖書注解やほかの文書に引用される聖書本文は含まれていない。 写本断片の数量は、1つの洞窟から見つかったものもあれば、複数の洞窟で見つかったものもある。 たとえば、創世記について言えば第1、第2,第4、第6、第8洞窟から合計19、 それにワディ・ムラバアトから1つ発見されている。
 キリスト教の旧約正典の観点から言えば、カトリックの第2正典を別にした39書は、エステル記を除いて、そのすべての書の断片がある。 その中で、モーセ五書が89ないし92、詩編34、イザヤ書21と数量的に目立って多い。 それは聖書の中でもこれらの書が特に重要とされ、読まれていたことを示唆している。 これはまた新約聖書で引用される旧約聖書についても言えることで、興味深い。
 カトリックの第2正典の中では、シラ書のヘブライ語本文、トビト記のヘブライ語とアラマイ語の本文、 それに従来バルク書に含まれていたエレミヤの手紙のギリシア語本文がある。 第2正典はヘブライ語で書かれたものではないので正典ではないと主張されたことがあったが、この根拠は払拭されることとなった。 他方、ユディト記、マカバイ記上下、知恵の書の本文は見つかっていない。
 他方、ギリシア語訳旧約聖書本文の写本断片もある。出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の70訳本文が見つかった。 それにナハル・ヘヴェル出土のギリシア語訳12小預言書の本文があり、これは70人訳ではない。 70人訳聖書は前3世紀以来エジプトのアレキサンドリアでギリシア語に翻訳された旧約聖書で、 これがイエス時代のパレスティナにもあったとこれまで推察されてはいた。新約聖書はギリシア語で書かれており、 これが旧約聖書を引用するのは、いつもギリシア語70人訳聖書によるので、 それは考えられてはいた。新約聖書はすべてパレスティナ以外の地で作成されたとは言え、 パレスティナにもあったはずだと推察されてはいた。 しかし、これを実証する写本はなかったが、死海写本の発見によってその写本がこの地ではじめて入手された。
 さらにレビ記とヨブ記についてはそのタルグムも発見された。 タルグムとはイエス時代のユダヤ人の言語であるアラマイ語に翻訳された聖書のことである。 それは会堂における安息日礼拝などの聖書朗読用に翻訳されたものである。 タルグムは時代が下がってからの写本で知られていたが、 クムランでイエス時代ないしそれ以前のタルグムの写本断片が見つかり、 これが刺激となってタルグム研究がその後大いに進み、イエスの人物や福音書の理解に新しい光を投げかけている。

 (ニ) 死海文書中の偽典
 ここで旧約偽典というのは、キリスト教全体で聖書としては受容されてこなかったが、古代では愛読され、 その古代訳が伝わっている書をいう。これは正典、第2正典以外のすべての書を偽典(Apocrypha)と呼ぶカトリックでは偽典と呼ばれ、 カトリックの第2正典を主要部とする文書群を外典(apocrypha)と呼ぶプロテスタントでも偽典(Pseudepigrapha)と言われる。 その中で、ヘブライ語またはアラマイ語本文はがクムランで始めて入手された偽典としてヨベル書、 エノク書、12族長の遺訓、それに偽典詩編がある。

 ヨベル書
 ヨベル書は、天地創造からシナイにおけるモーセをとうしての律法授与に至るまでの歴史を49年づつ 49(ヨベルとは7×7=49のこと)に分けて創世記を敷衍訳したもので、それゆえ小創世記とも言われる。 これはエチオピア正教会で正典として伝えられてきたので、その全書はエチオピア語訳でしか知られていなかった。 ほかにラテン語訳が部分的に伝わっている。ギリシア語訳は教父による引用によって知られるだけだが、 エチオピア語訳も、ラテン語訳も、ギリシア語訳からの重訳と考えられている。
 そのヘブライ語の写本断片が、死海写本の中にあり、入手された。 この写本断片は、後で述べるエノク書や12族長の遺訓の場合と異なり、エチオピア語訳にきわめて近い。 この書は、死海文書中『ダマスコ文書』(XVI:3−4)に引用されており、 またこの書は1年を364日(ヨベル書6:38参照)とする太陽暦の根拠を示そうとするものであり、 エルサレム神殿の公用の陰暦カレンダーを拒否するクムラン教団にとって、きわめて重要な書である。 作成は前2世紀後半が考えられている。幸いそのエチピア語訳に基く全書の日本語訳が、 村岡崇光氏によってなされている (『聖書外典偽典』4、旧約偽典、教文館、1975年、15−158頁、293−338に全訳と解説参照)。
 死海文書中のヨベル書の公表は、
 1Q17-18(1QJuba.b):DJD I
 2Q19(2QJub):DJD III
 3Q5(3QJub):DJD III
 4Q216-222(4QJuba-g), 4Q223-224(4QpapJubh), 4Q225-227(4QpseudoJuba-c):DJD XIII, 1-185
 11Q12(11QJub):DJD XXIII, 207-220

 研究書と入門書
 J.VanderKam, Textual and Historical Studies in the Book of Jubilees、HSM 14、Missoula, 1977;
 Id., The Book of Jubilees, a critical Text, CSCO vol.510, Scr.Aethiopici 87, Louvain, 1989
 Id., The Book of Jubilees, translated, CSCO vol.511, Scr.Aethiopici 88, Louvain, 1989
 Id., The Book of Jubilees, Guide to Apocrypha and Pseudepigrapha Series Editor M.A.Knibb, Sheffield, 2001

 エノク書
 エノク書は、義人エノク(創世紀5:21−24)が自ら見ることをゆるされた幻を語るという形式で書かれている。 これは108章からなる長編の黙示文学であるが、内容的に異なる複数の部分の集成である。 エチオピア正教会で正典として伝えられてきたので、その全訳はエチオピア訳でしかない。 西欧では、本書がほかの著作中に引用される訳文でしか知られず、その全書はまったく知られていなかった。 1773年、エチオピアに旅したジェイムズ・ブルースがその3つの写本を英国に持ち帰り、 その1つがローレンス大司教によって英訳され、1838年に出版された。 それ以降、エチオピア語訳エノク書の写本が多く西欧にもって来られ、翻訳もあいついだ。 その本文の発行は、A・ディルマン(1851年)、 J・フレミング(1902年)、R・H・チャールズ(1906年)によるものがあり、 最近ではM・A・ニップ(1978年)によるものがある。エノク書のギリシア語訳の写本も、部分的であるが、 1886年、エジプトのアクミムで発見された。それは同書I1−XXXII6のギリシア語訳である。 同書ICVII6−CIV, CVI-CVIIの断片は、1930年にミシガン大学図書館が入手したチェスター・ビーティ・パピルスにある。 これらギリシア語訳の写本断片は、M・ブラックによって出版された。エチオピア語訳もギリシア語訳からの重訳。
 幸い日本語訳も、ディルマンの本文に基づいて村岡崇光氏によってなされている (『聖書外典偽典』4、旧約偽典II、教文館、1975年、161−202、339−389頁参照)。
 エノク書全書(エチオピア語訳)の内容は、以下のとおり分けられる。  
第1部 I−XXXVI :天界、冥界、下界を旅したエノクの見聞記
第2部 XXXVII−LXXI :人の子についてのたとえの書
第3部 LXXII−LXXXII :光るものの書、天文学の書(暦法)
第4部 LXXXIII−XC :夢幻の書、夢幻の中で起こった歴史的な出来事を瞑想する。
第5部 XCI−CVIII :エノクの手紙

 このエノク書の写本断片がクムラン洞窟から出土した。これをT・S・ミリクは解読し、詳しく研究し、その成果を発表した。 それによると、第4洞窟出土の6つのアラマイ語写本断片は部分的だが、 その第1部のエノクの見聞記と第4部の夢幻の書にあたる(4Q201−202.204−7=4QEna-f ar)。 第3部の天文学の書も、第4洞窟出土の4つのアラマイ語写本によって確認された (4Q208−211=4QEnastra-d ar)。 第5部もその始めが第4洞窟出土の1つの写本によって確認された(4Q212=4QEn)。 ところが、第2部のたとえの書にあたる部分の写本断片がまったくない。 それゆえ、「人の子」に言及する第2部は西暦70年以前にはまだ書かれてはおらず、 これは西暦1または2世紀のユダヤ教徒ないしユダヤ人キリスト教徒によって作成されたのではないかという。 あるいはそれ以前から、クムラン以外のところにあったものか。 他方、この第2部にあたる部分の写本断片はないが、 その代わりにエチオピア語訳にない「巨人の書」と命名された書の写本断片が出土した (1Q23−24=1QEnGiantsa-b:2Q26=2QEnGiants; 4Q203=4QEnGiantsa ar;6Q8=6QEnGiants)。 このように、西暦70年以前に流布していたエノク書には、この「巨人の書」が含まれていたらしい。 その中で第4部の「夢幻の書」は前160/1年のユダ・マカバイの死を示唆しているので、そのあとに書かれたと思われる。 このほかの部分の作成については、第1部は前3世紀遡る部分を含み、また第3部もそれ以前のものかもしれない。 ここではヨベル書と同様、キルベト・クムランにいた住民が重視していた太陽暦が説かれている。
 このようにエノク書は、モーセ五書や五部からなる詩編のように、5つの書からなる集成として編集されたのではないかと思われる。 その中の「巨人の書」は、マニ教が正典として採用したので、キリスト教はこれを排除したらしい。 エノク書は複雑な作成、編集を経て伝わっているが、イエス前後の時代に愛読され、重視されていたことは確かである。 それは新約聖書中のユダ書14−15節にその引用があり (「アダムから7代目のエノク」はエノク書60:8、引用文はギリシア語訳エノク1:9)、 また示唆がある(2ペト2:4;ユダ6参照)ことからも頷ける。なお詳しくは、村岡氏の詳しい解説、前掲書162−166頁参照。
 1Q23-24(1QEnGiantsa-b):DJD I, 97-99
 2Q26(2QEnGiants ar):DJD III, 90-91
 4Q201-202, 204-207.212(4QEna-b.c-f.g ar):J.T.Milik, The Book of Enoch参照
 4Q203(4QEnGiants ar): J.T.Milik, The Book of Enoch参照
DJD XXXVI, 3-171;
DJD XXXI
 4Q208-211(4QEnastra-d ar):J.T.Milik, The Book of Enoch参照
 6Q8(6QenGiants ar):DJD III, 116-119

 研究論文と研究書
 J.T.Milik,Problemes de la littérature hénochique à la lumière des fragments aramèens de Qumrân, HTR 64(1971)333-378
 Id., The Books of Enoch, Aramaic Fragments of Qumran Cave 4, Oxford, 1976
 L.Stuckenbruck, The Book of Giants from Qumran : Text, Translation, and Commentary, TSAJ 63, Tubingen, 1997
 G.W.E.Nickelsburg, 1 Enoch, Hermenaia, Minneapolis, 2001

 12族長の遺訓
 12族長の遺訓は、ヤコブ(イスラエル)の12人の子らが死ぬ前に残した遺言として書かれている。 つまりルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、ヨセフ、 ベニヤミンが残した遺言として書かれている。 創世記第49章にヤコブ(=イスラエル)は死ぬ前にこの12人の子らに遺言を残して死んだとあるが、 ここから発想を得て、この書では12人の子らが遺言を残している。 この12族長の遺言は、これまでギリシア語訳で伝わっていた。 しかも、その写本の数はかなりあり、これは2系統で伝わっている。 そのほかアルメニア語訳、スラブ語訳、シリア語訳断片、またカイロのゲニザ断片の中にはレビの遺訓のアラマイ語訳があった。
 幸いそのギリシア語訳に基く日本語訳が笈川博一氏と土岐健治氏によってなされている (『聖書外典偽典』5、旧約偽典III、教文館、1976年、227−354、429−508頁参照)。
 クムランの第1洞窟からアラマイ語のレビの遺訓の断片(1Q21=1QTLevi ar)、 第4度窟から同じくアラマイ語のレビの遺訓(4Q213−214=4QTLevia−b ar)と ヘブライ語のナフタリの遺訓(4Q215=4QTNaph)が見つかった。 第3洞窟からはヘブライ語のユダの遺訓と思われる断片が見つかっている(3Q7)。 この中の第1と第4洞窟出土のレビの遺訓は、ギリシア語訳で伝わっているものより長く、 またそれはカイロのゲニザ断片にあるアラマイ語訳と同じ本文である。 これはまたアトス山にあった長い付加をもつギリシア語訳と同じものでもある。 ヘブライ語のナフタリの遺訓については、その最初の断片はビルハの系図を含み、 またそれに当たるギリシア語訳に比べて長い。ほかの断片は時代の終わりについて述べ、それにあたるギリシア語訳より長い。 これらアラマイ語ないしヘブライ語で書かれた遺訓は、クムラン遺跡に人が住んでいた時代にあったものだが、 12族長の遺訓のほかの部分はその後おそらくキリスト教徒によって書かれたものかもしれない。 クムランで入手された写本断片が古代訳で伝わる本書といかなる関係があるかについては、なおいっそうの検討が期待される。
 死海文書にある12族長の遺訓の公表は、
 1Q21(1QTLevi ar):DJD I, 87-91
 4Q213-214(4QTLevia-b ar):DJD XXII, 1-72
 4Q215(4QTNaph), 3Q7(3QTJud):DJD XXII.73-82

 入門書
 R.A.Kugler, The Testaments of the Twelve Patriarchs, Guide to Apocrypha and Pseudepigrapha, Series Editor M.A.Knibb, Sheffield, 2001

 偽典詩編
 ヘブライ語の旧約聖書には、詩編が150編含まれている。これが正典詩編である。 ギリシア語セプトゥアギンタには詩編151があり、ラテン語訳も幾つかのウルガタ訳文の写本にある。 シリア語訳旧約聖書(ペッシータ)の写本の中には詩編I,II,III、IV、Vを記載しているものがある。 この詩編Iは、セプトゥアギンタの詩編151にあたる。正典詩編150編以外のこれらの詩編は偽典であり、 ギリシア語訳、特にシリア語訳で知られてはいたが、ヘブライ語本文はなかった。
 クムラン第11洞窟から詩編の巻物の断片が出土したが、その中にシリア語訳詩編I(=詩編151)、 II,IIIのヘブライ語本文の断片が入手された(11Q5=11QPsa)。 またその中の第21欄に、前に述べたとおりシラ51:13−19、30のヘブライ語本文もあった (そのヘブライ語本文の断片はカイロのゲニザからも入手されていた)。 第4洞窟(4Q380−381=4Qnoncanonical Psalm A、また4Q448も)と 第11洞窟((11Q11=11QApPs)からは、これまで知られなかった偽典詩編)も見つかっている。
 偽典詩編の公表は、
 11Q5-9(11QPsa-e): DJD IV(11QPsa), 53-79
DJD XXIII(11QPsa-e), 29-78

 そのほか
 J.A.Sanders, The Dead Sea Psalms Scroll, Ithaca(Cornell University Press), 1967 ;
 E.M.Schuller, Non-Canonical Psalms from Qumran, Atlanta, 1986(4Q380-381)
 11Q11(11QapPsa):DJD XXIII, 181-205 :詩編91を含むが、未知の魔除けの詩編


 (ホ) 死海文書中の聖書本文の意義

 A)本文批判上の意義
 この数々の発見は、旧約聖書の研究にとって画期的な出来事であった。 その意義は本文批判上、旧約正典を考える上で、さらに旧約聖書を解釈する上できわめて大きく、 今後は死海文書を無視しては旧約聖書研究も、また新約聖書研究も欠陥のそしりを免れない。 ここでは、まずその本文批判上の意義、つぎに旧約正典を考える上での意義を取り上げ、 具体的な釈義におけるその意義は追って見ていくこととする。 以下の説明では専門的な前提知識を必要とするが、出来るだけ簡潔にその要点を指摘したい。

 @)最古のヘブライ語聖書本文
 その意義はまずその古さのゆえに価値があると言わなければならない。 ヘブライ語聖書本文に関しては、死海文書発見の1947年以前には、マソラ本文しかなかった。 このマソラ本文については、本ホーム・ページの聖書研究の中の「旧約聖書の本文」参照。 その中でも旧約39全書を含む最古の写本は、およそ西暦10世紀に筆写されたレニングラード写本19Bであった。 これより古く同じく西暦10世紀筆写のアレッポ写本は優れたものであるが、モーセ五書の大部分が欠落している。 マソラ本文より古いのは、カイロのゲニザ聖書断片(紀元6−8世紀)に含まれる聖書断片しかなかった。 ただ紀元前に遡る写本断片として、エジプトで発見された小さなナシュ・パピルスがあるが、 これは申命記第5章の十戒を書いたもので、前述したテフィリームの聖書引用である。
 死海文書の発見によって西暦10世紀の写本から見ればおよそ10世紀も古い聖書本文が手に入った。 その中で最も新しいのは、ワディ・ムラバアトで発見された12小預言書の写本断片と ワディ・ヘヴェルで発見された詩編のヘブライ語本文の断片は、 西暦132−135年にローマに対してバル・コホバのユダヤ兵がもっていたものである。 ほかのものはすべて西暦70年以前のものである。 その中で、4Q17(Ex-Levf)、4Q52(Samb)、4Q70(Jera)は、最も古い写本のひとつで、 前250−150年に筆写されたものである。 そうすると、これはキルベト・クムランにその住民が定着する以前に写されたものということになる。 それはどこで写されたかというと、エルサレムかもしれない。 このことは、その住民がどこから来たかということと関わる。 他方、ダニエル書の写本の1断片(4QDan)は、前1世紀中頃に写されたもので、 ダニエル書作成後およそ100年の筆写ということになる。 これは、新約聖書本文の最古のパピルス断片P52(西暦2世紀前半)と比すべきもの。

 A)プロト・マソラ本文
 つぎにその古い写本断片によってマソラ本文が信頼するに足るものであることが証明された。 死海文書中全聖書の本文が完全にあるわけではないが、イザヤ書はその全書があるので、特筆すべきものであろう。 これをマソラ本文と比べることによって、マソラ本文が1000年の年月を経て忠実に写し伝えられたかどうか、 検証することができる。1QIsaは前2世紀中頃の筆写で、ヘブライ語の子音文字しか書かれていないが、 レニングラード写本のイザヤ書の子音文字と比べて、比較的に相違(Variation,異読)は少ない。 マソラ本文が比較的忠実に写されたもので、本質的には同じであることがわかった。 そこでマソラ本文の古いものとして、 プロト・マソラ本文(原マソラ本文、Proto-Massora)と言うべきものがあったと考えられるようになった。

 B)本文伝承の多様性
 それにまた西暦70年以前に、プロト・マソラ本文以外のヘブライ語本文も流布していたことも明らかになった。 1952年にクムラン第4洞窟から出土したサムエル記の断片の1つ、第1断片(4QSam)は、 前1世紀後半(前50−25年頃)に筆写されたもので、 1サム1:22bー28、2:1ー6 、16ー25のヘブライ語本文を提示する。F・M・クロスが解読し、 研究した結果、これには多くの欠損箇所があるが、 マソラ本文(MT)とセプトゥアギンタ(LXX)に比べると、4QSamとLXXが共通し、 MTとは異なるところが23、MTとLXXが共通し、 4QSamとは異なるところが7、4QSam とMTが共通し、 LXXとは異なるところが1という結果であった。 以前にはセプトゥアギンタ(前3世紀にエジプトのアレキサンドリアでギリシア語に翻訳された旧約聖書)が、 ヘブライ語聖書のマソラ本文と異なるとき、セプトゥアギンタの翻訳者が文字どおりではなく、 自由に敷衍訳を行ったのではないかと説明されていたが、4QSamのヘブライ語写本断片は、 マソラ本文(MT)と異なるヘブライ語本文を示しており、 その異なるところでセプトゥアギンタ(LXX)と共通していて、このような共通するところが多いと言うことがわかった。 具体的に一例をあげれば、1サム1の23は、MTでは、 「この子の乳離れするまで待ちなさい。ただ主がご自分の御言葉を実現してくださるように」となっている。 LXXでは、「この子の乳離れするまで待ちなさい。 ただ主があなたの口から出るものを実現してくださるように」となっている。 4QSamでは :「[ 欠損 ]待ちなさい。...あなたの口から出るもの...」となっている。 ここでMTが「ご自分の御言葉を」としているところを、LXXは「あなたの口から出るものを」としている。 この「あなたの口から出るもの」とは、その文脈からハンナの言った言葉を指していて、このほうが筋が通る。 従来、「あなたの口から出るもの」とあるのは、LXXの翻訳者による変更と見なされたが、 4QSamによって、マソラ本文ではないヘブライ語本文によるということが明らかにになった。 このようにLXXの翻訳者は、MTとは異なるヘブライ語本文を忠実に翻訳したのではないかということになった。 これはまた、その時代(前2−西暦1世紀)にマソラとは異なるヘブライ語本文が流布していたことを示しており、 これは新しい発見であった。その後、4QSamがLXXの底本とは必ずしも言えないが、 LXXとMTを比べて異なる場合、その相違はMTと異なるヘブライ語本文によることも考えなければならなくなった。 第4洞窟出土のもう一つのサムエル記断片からも同じ結果が得られている。
 もう一つの例をあげよう。イザヤ53:10b−11aは、マソラ本文(MT)によると 「主の望みは彼の手によって成し遂げられる。 自分の魂の労苦に飽かされ、汗に(?)倦まされたが・・・」(本文は難解で、この訳文も一つの解釈による)となっているが、 セプトィアギンタ(LXX)によると「主は彼の魂の痛みを取り上げ、光を彼に示し、・・」となっており、 この「光」は、死海文書のイザヤ書ヘブライ語写本1QIsa、 同書断片1QIsaと4QIsaに確認される。 これは1QIsaを含め、マソラ本文と異なっており、 LXXはそのマソラ本文以外のヘブライ語本文を翻訳したと判断される。 死海文書中イザヤ書はその写本と写本断片が多くあるが、 その中にはマソラ本文と同じでなくても近いもの、離れているもの、その中間と複数あった。 このように、当時ヘブライ語聖書の本文は統一されず、多様であったことがわかった。
 サマリア五書につぃても、新たな事実が明らかとなった。 ハスモネアの大祭司ヨハネ・ヒルカノスの時代(在位、前134−104年)、 前129/8年以来、シケムのゲリジム山に神殿をもつサマリア人はエルサレム中心のユダヤ人から決定的に分離し、 独自の宗教的伝統をもつようになった。彼らはモーセ五書のみを正典とし、 その彼らのモーセ五書は、サマリア五書と言われ、 マソラ本文とはかなり異なっている(その相違については本HP「旧約聖書の本文」中のサマリア五書参照)。 そのサマリア五書と同じ特徴をもつ本文が、 P・W・スキーンによってクムラン第4洞窟出土の出エジプト記の1断片(4QpaleoExod)にあることが明らかにされた。 一例をあげれば、マソラ本文による出エジプト記32:10のあと、サマリア五書によると、 申命記9:20から取った「アロンに対しても、主は激しく怒って滅ぼそうとされたが、 モーセはアロンのためにも祈った」という付加がある。その出エジプト記の断片にはこの付加がある。 その断片には、このようなサマリア五書にある付加がほかにもある。 このマソラ本文と異なるサマリア五書の本文が、サマリア人でないキルベト・クムランの住民の中にあったということは、 この本文がマソラ本文と並んでパレスティナに広く流布していたことを意味している。
 エレミヤ書の写本断片は特に興味深い。エレミヤ書のヘブライ語本文とそのギリシア語セプトゥアギンタ訳本文は、 後者が前者と比べて8分の1ほど短く、また内容の配置も異なっているところがある。 この相違はどう説明すればいいのか。 アレキサンドリアにいたその翻訳者は自分なりの理由でヘブライ語本文を短縮したのではないかと考える学者もいれば、 その相違はエレミヤ書が以前に異なる編纂作業によって成立したことから来ると考える学者もいた。 ところが、死海文書の聖書断片の中に、エレミヤ書のマソラ本文を提示するものと並んで、 セプトゥアギンタの底本(Vorlage)とも思われる短いヘブライ語本文を提示するもの(4QJer)もあった。 こうして短いエレミヤ書のヘブライ語本文がアレキサンドリアのみならず、パレスティナにもあって、 長いエレミヤ書ヘブライ語本文と並存していたことがわかった。 この長い本文は、短い本文を拡大したものかもしれないということになった。
 前掲の4QSamにしても、4QJerにしても、そのヘブライ語聖書本文はセプトゥアギンタが翻訳されたとき、 アレキサンドリアにあったものだが、それがそこからキルベト・クムランに届けられたものとは証明されず、 元来パレスティナにあったものと考えられる。事実、サムエル記に並行した歴代誌のマソラ本文は、 4QSamの本文を資料として用いている。

 C)多様な本文伝承が意味するもの
 死海文書の発見は、前68年以前に多様なヘブライ語聖書本文があったことを明らかにした。 そこでまたその多様な本文の起源や相互関係についても、新たな課題を提起した。 そこでまずF・M・クロスは、パレスティナにはサマリア五書型の本文があり、 アレキサンドリアにはセプトゥアギンタ型の本文があり、 マソラ本文型はバビロンにあって進展した本文伝承ではないかと提唱した。 このようにその相違を、本文があった地域に見ようとした。 それに対してS・タルモンはその相違を、そのそれぞれの本文型を用いていた複数の社会集団によるとし、 たまたま3つの社会集団が存続したので、3つの本文型が伝えられることになったと考える。 今日、このいずれも満足のいく説明ではない。クロス説に対しては、 以前からパレスティナに3つの本文型が並存していたと考えられるからであり、 タルモン説に対してはキルベト・クムランにいた一集団が複数の本文型をもっていたからである。 その後、それらに代わる当時のヘブライ語聖書本文伝承の説明が、E・トブやE・ウーリッヒによって提唱されている。

 D)ギリシア語訳旧約聖書について
 ギリシア語訳旧約聖書についても、死海文書は新しい事実を明らかにしてくれた。 まず死海文書によって、イエス時代のパレスティナにギリシア語訳セプトゥアギンタの本文があったことが初めて実証された。 新約聖書は、旧約聖書を引用するとき、ギリシア語訳旧約聖書、特にセプトゥアギンタにしたがって引用している。 このギリシア語訳がマソラ本文を忠実に直訳したものなら問題ないが、 そうではなく、しばしば異なる場合がある。一例をあげると、出エジプト記1:5(創世記46:27も)で、 マソラ本文(MT)によると、ヤコブの腰から出た子、孫の総数は「70」とあるのに、 セプトゥアギンタ(LXX)によると「75」となっている。この「75」は、 第4洞窟出土の出エジプト記のヘブライ語写本断片(4QEx)にもあって、 セプトゥアギンタが誤訳ではなく、マソラ本文でないヘブライ語本文を翻訳したものであることがわかった。 さて、出エジプト記1:5に言及する使7:14でも「75」となっている。 この使徒言行録の著者ルカは、4QExにあるようなヘブライ語本文ではなく、 ほかの箇所でもよく用いるセプトゥアギンタによって「75」と書いたにちがいない。 この使徒言行録のみならず、新約聖書はすべてパレスティナ以外の地で書かれたものであるが、 当時のパレスティナにもセプトゥアギンタがあったのではないかと、憶測はなされていた。 しかし、その当時の写本は断片でエジプトでは発見されていたが、パレスティナでは皆無であった。 それがクムランの洞窟で発見された。しかも、ギリシア文化に懐疑的なここの住民が、 セプトゥアギンタをもっていたことは、この聖書がこの地でどれほど影響力をもっていたかを示している。

 E)ギリシア語訳旧約聖書の校訂
 死海文書の中に、ギリシア語訳聖書であっても、セプトゥアギンタではないギリシア語訳聖書本文もあった。 ナハル・ヘヴェル出土のギリシア語訳12小預言書は、セプトゥアギンタではなく、 これを校訂したものとしての跡をとどめていた。これはセプトゥアギンタの本文伝承に新たな光を投げかけてくれた。 何を基準にその校訂作業を行っているかというと、多様なヘブライ語聖書本文の中のひとつを選んで、 これを標準としているわけだが、それがマソラ本文であることがわかった。 このようにこの12小預言書のギリシア語訳本文は、 一つのヘブライ語聖書本文が標準化(standardization)される過程にあったことを窺わせた。
 1952年、ナハル・ヘヴェルの洞窟で見つかったこの断片は、 セプトゥアギンタの訳文が、ヘブライ語本文とは異なるとき、これに一層忠実であるよう校訂が行われたことを示していた。 ドミニコ会士D・バルテレミーは、この写本断片を見たとき、これがセプトゥアギンタと異なる一方、 そこには西暦2世紀の教父ユスティノスが引用するギリシア語訳聖書本文と共通する特徴があることに気づいた。 他方、古代においてセプトゥアギンタと並んで、別にアクイラ訳、シンマコス訳、テオドティオン訳があるのが知られていたが、 その12小預言書の本文がこのアクイラ訳にも似た様相を呈していることも見抜いた。 さて、このアクイラ訳は西暦1世紀の終わりから2世紀の始めにかけてラビの解釈の影響を受けて校訂されたものであるが、 その新たに出土した12小預言者本文もアクイラ訳ほど徹底してはいないが、 同じ影響が認められ、それでそれがアクイラ訳に先行する校訂作業によるのではないかと推論した。 バルテレミーは詳しい検証を重ね、十年後にその成果を発表し、最初に推論したことを再確認した。 その訳文は幾つかの特徴をもっているが、その最も顕著なのは、ヘブライ語のウェガム( wegãm )を、 直訳的にκαίγεと訳していることにあり、 そこでこの校訂作業をカイゲ校訂(καίγε−recension)と呼んだ。 さらに、この同じ特徴をもった本文が、従来テオドシオン訳と言われてきたものであり、 また従来セプトゥアギンタとして伝わっている写本の中にも混じり込んでいることがわかった。 これを総じてカイゲ・グループと言い、これには哀歌の訳文、 それにおそらく雅歌とルツ記の訳文、 列王のβγとγδ部(=2サム11の2ー1王2の11と1王22の1ー2王25の30)の校訂文の大部分、 特に写本irua2 とBefszにある士師記の校訂文、 ダニエル書のテオドティオン校訂文、ヨブ記のセプトゥアギンタ訳文へのテオドティオンによる付加文、 エレミヤ書のセプトゥアギンタへの、しばしば匿名者による付加文、 ヘクサプラのテオドティオン訳の欄、詩編の第5欄が含まれる。 この校訂を行った人は、テオドティオンと同一人物であるが、 この人物はこれまで西暦200年頃の人と考えられていたが、 実際は西暦1世紀の始め頃、つまりイエスの誕生とほぼ同じ頃のラビではないかとの見当をつけ、 それはヒレルの弟子、ウジエルの子ヨナタンではないかと提唱した。
 このように、セプトゥアギンタが翻訳された後、 ある一つのヘブライ語本文にいっそう忠実であるよう一連の作業がなされつつ伝承されたことを示した。 その校訂の経過は、まずアクイラ訳の先駆としてカイゲ校訂文(=テオドティオン)、 つぎにアクイラ訳、これを改良したシンマコス訳というように行われた。 このように従来考えられてきたアクイラ訳、シンマコス訳、テオドティオン訳の年代順に変更を迫ることにもなった。 従来、テオドティオン訳と言われてきたものが最初にあったということとなった。 それゆえ、1コリ15:54におけるイザヤ25:8の引用、使2:18におけるヨエル3:2の引用にあるように、 新約聖書にカイゲ校訂文の引用があっても不思議ではないということになった。


 B)正典を考える上での意義
 キリスト教の正典の観点から言えば、旧約正典39書に関しては、 エステル記を除いてすべてクムランの教団において用いられていた。 そのエステル記がないということについては、たまたまなかったというより、理由があったようである。 エステル記はユダ・マカバイによる神殿の清め(BC164)を祝うプリムの祭りで朗読されるためのものであるが、 クムランの教団はマカバイおよびその子孫ハスモネア家に対して憎悪を抱き、 さらに自分たちが重んずる伝統的な典礼暦にはプリムの祭りがなかったからであろう。
 第2正典はカトリックの呼び名であって、これにエズラ記(ギリシア語)、エズラ記(ラテン語)、 マナセの祈りを加えて、プロテスタントでは「外典」ないし「アポクリファ」と言われ、「旧約続編」と訳されることがある。 この第2正典はヘブライ語本文なしで伝わってきたので、ユダヤ教では聖書として受容されずにきたが、 元来アレキサンドリアのユダヤ教徒から由来する。 それゆえ、ギリシア語セプトウアギンタ訳による旧約正典は、アレキサンドリア正典と言われることがある。
 第2正典の一つ、シラ書はギリシア語、ラテン語、シリア語訳でしか伝わってこなかったが、 19世紀の終わりにカイロのゲニザ聖書断片の中から初めてそのヘブライ語本文が見つかった。 それが、またクムラン(2Q18=2QSirと11Q5=11QPs.col.XXI)と マサダ(MasSir)から入手された。 トビト記も、初めてそのヘブライ語とアラマイ語の本文が入手された(4Q196−200=4QTobita−e)。 エレミヤの手紙(ラテン語ウルガタ訳ではバルク書6:1−72)も、 そのギリシア語本文の小さな断片が出土している(7Q2=7QLXXEpJer)。 死海文書中のシラ書、トビト記、エレミヤの手紙の公表は、つぎのとおり。
 2Q18(=2QSir):DJD, III, 75-77
 11QPs.col.XXI:DJD IV
 MasSir:Y.Yadin, The Ben Sira Scroll from Masada, Jerusalem, 1965
 4Q196−200=4QTobita−e:DJD XIX, 1-75
 7Q2(7QLXXEpJer):DJD III, 43-44

 他方、マカバイ記1−2、知恵の書とユディト記はない。 マカバイ記1−2は、この教団がハスモネア王家に反感を抱いていたので、排除されたのであろうか。 知恵の書は、前50年頃エジプトで作成されたので、クムランに届けられるには、 その流布が時代的に遅すぎたのかもしれない。 ユディト記がないのは、たまたま彼らが手にすることがなかったからかもしれない。
 クムラン教団の観点から言えば、彼らがどの書を正典としていたかを示す正典目録はないので、明らかでない。 キリスト教の歴史に現れたような正典目録がないこと自体、時代的にも地域的にも事情が異なっていたことを窺がわせる。 つまり、西暦4−5世紀のキリスト教においてアレイオスやネストリウスによって起こされた三位一体論や キリスト論などの教義論争が厳密な正典目録を全教会的に作成する要因となったが、前2―1世紀のユダヤ教にはそのような事情はなかった。 とはいえ、先代から伝えられる書を見境もなくすべて神の霊感によって書かれた神のことばとして受容されてはいなかったという意味で、 何らかの正典の観念があったことは否定できない。それは、古い書体で書かれていることから、 また聖書として解釈されていることから、「..と書き記されているように」という言葉で引用されることから窺がえる。 それにエステル記の場合のように教団の信条に合わないものを排除しているように思われるが、 このように取捨選択が行われていること自体、何らかの正典の観念があったことを示している。 正典とは、ある信仰共同体が、ある書物を神のことばとして受容することだからである。 この意味で律法、つまり創、出、レビ、民、申のモーセ五書が正典とされていたことに疑いの余地はない。 古い書体で書かれた断片のあるヨブ記も特に重んじられており、正典とされていたと見てよい。 聖書として解釈されるものとしてイザヤ、12小預言書、詩編がある。 聖書として引用されるものとして、モーセ五書のほかイザヤ、エレミヤ、 エゼキエル、12小預言書、詩編、それにダニエル書がある。
 このようにモーセ五書、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、12小預言書、詩編、ヨブ記、ダニエル書は正典とされていたらしい。 12小預言書については、前1世紀には、 ひとつのまとまりの書となっていたことがナハル・ヘヴェル出土のセプトゥアギンタ12小預言書や ワディ・ムラバアト出土のヘブライ語12小預言書からわかっているが、すでに以前からそうであったらしい。 またダニエル書も、ここでは預言書として考えられていること(4Q174、DJD 5,54)も、 注目に価する。ダニエル書が諸書に入れられるのは、タルムードの時代になってかららしい。 詩編は正典と考えられていた(11QPs:col.27, linea 11)が、 それは「律法と預言書」のほかの特別のものに含まれると考えられていたらしい。 クムラン教団の歴史の初期に書かれた手紙に、よく出る「モーセの書と預言者たちの書」と共に、 ある一箇所で「モーセの書と預言者たちの書とダビ[デの書]」という表現がある(4QMMT:C10)が、 これも聖書の呼び名と言っていい。 これはルカ24:44にある「モーセの律法と預言者の書と詩編」という聖書の呼び名と通じている。 詩編はダビデの作と考えられていたからである。 したがって、西暦2世紀以降のユダヤ教の正典の中のモーセ五書、それに預言書がすでに正典とされていたと言えよう。 ただし、その中の預言書の中に具体的にどのような書が含まれていたか、問題があろう。 またこの「詩編」は、ユダヤ教の正典のケトゥビム(諸書)を代表させているようだが、 詩編が特別視されていることは確かである。 ただし、その正典の詩編が150編に限られていたかどうかは別問題である。
 さらにまた、後述するように、これまでまったく知られなかった多数の書の写本断片が入手された。 その中にはヨベル書やエノク書に類似する文書、たとえば外典創世記などが多数ある。 また『神殿の巻物』は、キルベト・クムランにいた住民にとっては正典ではなかったかとの意見がある。
 これらの写本断片はすべて、およそ西暦2世紀にキリスト教が、 またユダヤ教がそれぞれ正典を決定する以前にあったものである。 この当時、本文伝承に関してはマソラ本文が基準とされる過程にあったのではないか、 他方、正典に関しては、その最終決定への過程にあったと言うべきであろう。

 主な参考文献
 これら死海写本中の聖書本文はほとんど出版されている。第1洞窟出土のイザヤ書
 (1QIsa)はW.Burrows, M .,The Dead Sea Scrolls of St. Mark's Monastery, Vol.1, 1950, New Haven :F.M.Cross, et al., eds, Scrolls from Qumran Cave I, from Photographs by John C.Trever, Jerusalem, 1972に公表されている。 別のイザヤ書断片(1QIsa)は、E.L.Sukenik, The Dead Sea Scrolls of the Hebrew University, prepared for the press by N.Avigad, Jerusalem, 1955に。 そのほかの洞窟出土の写本断片は、DJDシリーズの中に公表されているが、 特に第4洞窟出土の写本については公式出版:DJD・IX(Paleo-Hebrew and Greek Biblical Manuscripts)、 1992:DJD・XII(Genesis-Numbers)、 1994;DJD・IX(Deuteronomy, Joshua, Judges, Kings)、 1995;DJD・XV(The Prophets)、1997年;DJD・XVI(Psalms to Chronicles)、 2000;そのほか研究論文または研究書は、
  1. Cross, F.M.,A New Qumran Biblical Fragments Related to the Original Hebrew Underlying the Septuagint, BASOR 132(December 1953), 15-26:サムエル記の1写本断片(4QSam)が セプトゥアギンタの底本としてマソラ本文ではないヘブライ語聖書本文のあったことを明らかにした最初の論文。
  2. Id., The Oldest Manuscripts from Qumran, JBL 74(1955)147-172: これは4QSamが4QSamと同型の本文であり、マカバイ時代以前に遡る、 おそらく3世紀後半の写本であるかもしれないと説いた論文。 これはまた Qumran and the History of the Biblical Texts, edited by F.M.Cross & Sh.Talmon, Cambridge and London, 1975, 147-142参照。この書をQHBTと略す。 ここに死海写本中の聖書本文について初期の重要な研究論文が収録されている。
  3. Id., The Evolution of a Theory of Local Texts, QHBT, 1975, 306-315
  4. P.W.Skean, Exodus in the Samaritan Recension from Qumran, JBL 74(1955), 182-187、 この論文はサマリア五書型の本文にクムランにあったことを証明し、旧約聖書のヘブライ語本文伝承について、新たに見直す契機となった。
  5. Id., The Biblical Scrolls from Qumran and the Text of the Old Testament, BA 28(1965) 87-100、1960年代中頃の研究状況について。
  6. D.Barthélemy, Redécouverte d'un chaînon manquant de l'histoire de la Septante, RB 60(1953) 18-29、ナハル・ヘヴェルのギリシア語訳12小預言書の特徴とその価値を示した最初の論文。
  7. Id., Les devanciers d'Aquila, VTS 10(1963), Leiden, 1963、カイゲ校訂文を実証した研究書。
  8. J.A.Sanders, Palestinian Manuscripts 1947-1972, QHBT, 401-413
  9. Sh.Talmon, The Textual Study of the Bible - A New Outlook, QHBT, 1975, 321-400
  10. Tov,E., A Modern Textual Outlook Based on the Qumran Scrolls, HUCA 53(1982), 11-27
  11. Id., Hebrew Biblical Manuscripts from the Judaean desert : Their Contribution to Textual Criticism, JJS 39(1988)5-37
  12. Id.,  Textual Criticism of the Hebrew Bible, Minneapolis Assen, 1992(原本はヘブライ語、1989年発行):最新の旧約本文批判への入門書。
  13. E.Urlich, E., Horizons of Old Testament Textual Research at the Thirtieth Anniversary of Qumran Cave 4, CBQ 46(1984) 613-636
  14. Id., Pluriformity in the Biblical Text, Text Groupes,and Question of Canon, in:Trebolle Barrera, J.,Vegas Montaner, L.(eds.), Madrid Qumran Congress:Proceedings of the International Congress on the Dead Sea Scrolls, Madrid 18-21 March 1991, 2 vols, Leiden, 1993, 23-41
  15. Id., The Canonical Process, Textual Criticism, and the Latter Stages in the Composition of the Bible, Sha'arei Talmon : Studies in the Bible, Qumran, and the Ancient Near East Presented to Shemaryahu Talmon, ed.M.Fishbane and E.Tov with W.Fields ; WinonaLake, IN, 1992, 267-291
  16. Id.,  An Index of the Passages in the Biblical Manuscripts From the Judean Desert, Part 1 (Genesis-Kings), DSD 1(1994),113-129 ; Part 2 (Isaiah-Chronicles), DJD 2 (1995), 86-107;
  17. Id., The Dead Sea Scrolls and the Biblical Texts, in : DDS after 50 Years, vol.1., 79-100
  18. Id., The Dead Sea Scrolls and the Origins of the Bible, Leiden Boston Köln, 1999
  19. Greenspoon, L., The Dead Sea Scrolls and the Greek Bible, in:DDS after 50 Years, vol.1., 101-127
  20. Puech,É., Qumrân et le Texte de L'Ancien Testament, Congress Volume Oxford, VTS, 1998, 437-464, Leiden,1999
 ジェームス・C・ヴァンダーカム著、秦剛平訳『死海文書のすべて』、 青土社、1995年:67−92頁(第2章、写本概観A、B)、219−280(第5章、巻物と旧約聖書)も参照。

BACK