X 死海文書概観 2 |
(2)教団関連文書
死海文書の中で、聖書の正典、偽典以外にこの教団が所有していた文書として、いかなるものがあるのだろうか。
その全貌がほぼ明らかになった今日、文書は多様で、いかに分類すればよいのか迷うほどである。
1992年にその全文書をスペイン語、つづいて英語に翻訳したフロレンティーノ・ガルシア・マルティネスによると、
つぎのように分類される。
教団の規定集、
律法の解釈、
終末観を内容とする文書、
聖書解釈、
擬似聖書文学、
詩文集、
典礼文書、
天文学・暦法・占星術関連文書、
それに青銅の巻物。
この分類にしたがって、主要なものを幾つか紹介しよう。
そのそれぞれの文書の詳しい検討は別の機会に譲り、
ここではこの教団の性格を知るために重要なもの20を選んで紹介する。
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A 教団の規定集
1.教団規定(1QS)
規定集としてまず取り上げられなければならないのが、教団規定である。
これは第1洞窟で最初に発見された写本のひとつで、
それが壷に入れられていたことからその所有者であるクムランの共同体にとって重要なものであったにちがいない。
実際、これはこの共同体の性格と思想を知るために基礎的な文書である。
その書き始めに欠損があって、本書は当初、その内容から "The Manual of Discipline" と命名された。
それが日本語の「宗規要覧」という翻訳になったのであろう。
あとで第4洞窟から本書の写しが発見され、その欠損も読めるようになり、
今日へブライ語で、セレク・ハヤハド(共同体の規則)と言われる。
これを今後、ハヤハドを教団と訳し、セレクを規定と訳し、あわせて「教団規定」と呼ぶこととする。
本書の略号は1QS。
本書のあとに付随してあった2つの小冊子の1つ、セレク・ハエダーが、従来「会衆規定」と翻訳されてきたので、
それにあわせてセレクを「規定」と訳すこととした。
比較的に保存状態はよく、第1洞窟出土の本書はまもなく公表され、広く知られるようになった。
第4洞窟から本書の写しが10(4Q255−264=4QSa−j)、
第5洞窟から1つ(5Q11=5QS)入手されたが、すべて断片である。
その中には1QSより古いもの、また1QSの難解な箇所を読むために助けになるものもあるが、
完全なものとしては1QSしかない。それゆえ、クムラン研究のためには、この1QSが基礎的な文書である。
1QSは、11欄からなり、1欄におよそ25か26行ある。
以下、欄をローマ数字(I.II.III)で、行をアラビア数字(1.2.3)で表す。
その全体は必ずしも論理的に構成されてはいない。
本書は、まず大きく第1−4欄と第5−11欄に分けることができる。
第1-4欄では、まず序文でこの教団が目指すこと(I:1-15)、
つぎにその入会にあたって行なわれる誓約と誓約更新の儀式について(I:16-26; II:1-26; III:1-12)、
2つの霊の教え(III:13-26; IV:1-26)が言われる。
第5−11欄では、新しい序文でこの教団が目指すこと、
入会の誓約と志願者の調査、共同生活のための諸規則(V:1-26; VI:1-23)および罰則(VI:24-27; VII:1-25)、
教団設立の趣旨(VIII:1-27; XI:1-26; X:1-5)、賛美(X:6-26; XI:1-22)が言われる。
本書はこの教団が産みだした最古の著作の一つで、
VIII:1-10a.[10b-12a].12b-16a; IX:3-5a.5b-11にそのまた最古の部分あり、
ここには教団創設のマニフェストがあると考えられる。
その後、それに徐々に付加がなされ、複雑な形成過程を経て成立したということである。
その過程がいかなるものか、第四洞窟出土の写しも参考に研究され、議論されている。
その書体から推定すると、この写本は紀元前100−75年に写されたもので、
原本はその最も古い部分で前2世紀中頃までさかのぼる。
この写本のほかに短い2つの文書が一緒に保存されていた。
その最初は2欄だけで、会衆規定と呼ばれる文書で、ここで終末的展望の中で共同体は会衆と呼ばれ、
その会衆に属する者について、また共同の食事について述べている。その略号は1QSaである。
もう1つは祝祷集で、祝福の言葉を集めたものだが、欠損が多い。その略号は1QSbである。
日本語訳 日本聖書学研究所『死海文書』 −テキストの翻訳と解説−、1963年(山本書店)、
94−114に「教団規定(宗規要覧)」(関根正雄、松田伊作訳)、
115−118に「会衆規定」(石田友雄訳)、
119−122に「祝祷集(祝福のことば)」(石田友雄訳)。
2.ダマスコ文書(CD)
これは特異な文書で、死海文書発見以前に、すでに19世紀末にカイロのユダヤ教会堂跡のゲニザで聖書断片などに混じって発見されていた。
ゲニザとは使いふるされた聖なる文書を焼かずに保存する倉庫のこと。
それは西暦10世紀から12世紀頃に写されたものである。
本文書は『ツァドクの作品』と題して、1910年にS・シェヒターによって出版された。
1947年に始まる死海文書の発見後、本文書には教団規定などと共通するところがあるので、
死海文書と関係があるのではないかと考えられていた(H・H・ローリー)。
まもなくクムラン第4、5、6洞窟から本書の写本断片が出土し、
死海文書とみなされることとなった(4Q266−273=4QDa-h;5Q12=5QD;6Q15=6QD)。
これら洞窟で発見されたのは、あくまで断片であり、その全体像はカイロで入手されたものによってしかわからない。
そのカイロで入手されたの写本は2つあって、そのひとつ、写本Aは16欄を含み、
1欄に21−23行あり、その欄に従ってI-XVIと数えられる。
写本Bは2欄だけだが、各欄に35行、34行とあり、
これにはXIX-XXの数が付けられている。
この写本BのXIX-XXは、写本AのVII:6b-VIII:21と重複しているが、写本Aにない部分(XIX:33b-34;XX1-34)があり、
それは翻訳では写本AのVIIIのあとに訳出される。
写本Aにあたるクムラン洞窟出土の写本は、前75−50年頃に筆写されたものと判断される。
本書は「ユダの地から出ていってダマスコの地に留まったイスラエルの捕らわれの民」(VI:5)のことに触れ、
また本書は「ダマスコの地で新しい契約に入ったすべての人々」(VIII:21、VII:19も参照)に向かって書かれている。
それゆえ、本書は『ダマスコ文書』と呼ばれる。
本書の略号はカイロのC、ダマスコのDを取って、CDの略号で呼ばれる。
内容は、前半(I-VIII+XIX-XX)が説教調の訓戒であ。
その中でイスラエルの民が神と結んだ契約に忠実であったかどうか、振り返る。
民は不忠実であったが、神は先祖への愛と忠実を守って、「残りのもの」を生かしておいてくださった。
それが自分たちのこととする。その始めにはこの教団の歴史的起源を示唆している。
後半(IX-XVI)は、安息日規定など律法の諸規定を具体的にいかに守るべきか、ハラハーといわれる律法の実践的解釈を提示する。
日本語訳 日本聖書学研究所『死海文書』、前掲書、253−276(伴康哉訳)。
B 律法の解釈
3.第4洞窟出土ミクツァト・マアセ・ハトラ(4QMMT)
律法の各規定を具体的にいかに実行すればいいのか、解釈したものをハラハーという。
これは前述のダマスコ文書などにも含まれているが、
本書はそのハラハーについて論争相手に「わたしたちは」と言って、自分たちの解釈を主張するところに特徴がある。
これは、前75―50年に写されたものだが、原本は教団初期に遡るもので、
その創設者が書いた手紙ではないかと言われる。
結びにミクツァト・マアセ・ハトラとあり、これが本書の題名とされている。
それから本書の略号MMTが取られている。
解読担当者E・キムロンにより、ミクツァトは「幾つかの」のあと、マアセ・ハトラは「律法の法規」と訳されているが、
これは「律法の行い」とも訳すことができるが、むしろこう訳すべきだという学者もいる。
そうすると、これはパウロがよく言う「律法の実行」(ガラ2:16など参照)のヘブライ語にあたる。
本書はきわめて小さな断片からなる6つの断片群(4Q394−399)で、120行ほどが解読可能である。
そのはじめに暦が書かれており、これは彼らが重視する太陽暦である。
そのあと本体があり、ここでは律法の規定の解釈が並び、
その解釈は、西暦2世紀末に書きとめられたミシュナの中で、ファリサイ派の解釈に対して、
サドカイ派が取った、いっそう厳しい立場を主張する。
したがって、この文書が明らかになることにより、クムラン教団はサドカイ派だったのではないかという説や、
彼らがエッセネ派であったとしても律法の解釈に限ってはサドカイ派の立場を取っているとか、従来のエッセネ派説にも修正を迫った。
日本語訳 拙著「4Qミクツァト・マアセ・ハトラ(4QMMT=4Q394−399) ―日本語訳と若干の解説―、
英知大学論叢『サピエンチア』第37号、平成15(2003)年、27−45
C 終末観を内容とする文書
4.戦闘規定(=戦いの書、1QM)
第1洞窟で発見された本書の最初の言葉から、解読者スケニクは「光の子らと闇の子らとの戦い」という名をつけた。
この戦いがヘブライ語でミルハマと言われるので、本書は1QMの略号で呼ばれる。
この言葉の前が欠損しており、その息子ヤディンはそれを「これは、規定の書である」と補った。
そこから本書の書名は「光の子らと闇の子らの戦いの規定の書」ではなかったかという。
このように本書は、第1洞窟出土の『教団の規定の書』(1QS)、
同じくそれに付けられていた『会衆の規定の書』(1QSa)のように、クムラン教団が守るべき規定の書であった。
これは、この教団が終末に来る最終戦争において守るべき規定を内容とする。
この巻物は2.90mあり、19欄からなる。各欄に17−18行に文字が書かれているが、底辺に欠損があって、
ここに幾つの行があったかは不明。おそらく5−6行あったものと想定して読まなければならない。
まず第1欄に終末の最終戦争の要約がある(I:1-9a)。
それは光の子らと闇の子らの戦いであるが、光の子らとは、聖なる者たち、つまり天の御使いたち、
それにレビの子ら、ユダの子ら、ベニヤミンの子らのことで、ここに自分たちも含まれると考えている。
その彼らは荒れ野の捕囚民とも自覚している。
闇の子らとは、ベリアル、つまり悪の天使長とその軍団と、エドム、モアブ、アンモン、ペリシテ、
アッシリアのキティム、エジプトにおけるキティム、北の諸王、ヤフェト、アッシリア、キティムと言われる。
これらはイスラエルの伝統的な敵対民族であり、それが象徴的な意味で用いられているが、
これで実際に何が意味されているのかは、謎である。
戦いは捕囚民が各地からエルサレムの荒れ野に帰ってくるときに始まる。
つづいてその最終段階、つまりキティム壊滅の日(I:8-15)のこと、
そのあと欠損部が大きくて推察するしかないが、闇の子らの壊滅(I:16-?)が言われていたのであろう。
第2−9欄で最終戦争のための準備、つまり軍隊の編成と戦術について述べられる。
最終戦争は40年間続くとして、最初の6年のことが書かれていたらしいが、それは欠損部で言われていたものと思われる。
第2欄の始めにその40年の最初の安息年について述べる(I:?-II:1-6a)。
安息年には戦いはしないで、組織的に神への典礼奉仕に従事する。残りの33年間でも戦いをしない安息年を除くと、戦うのは29年となる。
その間に、いかに軍隊を編成し、最後の敵キティムを打倒するまで戦いを展開させるかについて述べる(II:6b-14)。
続いてラッパについての規定(11:16-III:11)、軍旗についての規定(III:13-IV:17)、
盾についての規定(IV:?-V:2)、戦闘態勢と武装についての規定(V:3-IX:18+)と続く。
その中で部隊編成(V:3-4a)、武装つまり盾、槍、短剣(V:4b-14)、歩兵隊と騎兵隊の戦列(V:16-VI:17+)、
戦闘員の条件(VI:?-VII:7)と具体的に指示した上で、
戦闘における祭司とレビ人の任務(VII:9-IX:9)と部隊編成を変更するときの規定(IX:10-18+?)を書く。
このように戦いにあって指導的役割を果すのが祭司のラッパなのである。
第10−14欄では、戦いにおける祈りが書かれ、戦いの前に祭司が行う激励(IX:?-XII:18+)、
勝利のときに指導者たちが与える祝福(XII:?-XIV:1)、勝利の後の祈り、つまり感謝の典礼(XIV:2-18+)が言われる。
光の子らが勝利することを確信し、そのときの祈りまで予め作成しておくという彼らの終末観にあらためて驚かされる。
第17−19欄で、第1欄の最終戦争が言われる。
本書は、天界と下界を巻き込んだ最終戦争に対して教団の会員を備えさせようとする。
教団を具体的に軍隊組織として描く本文書は、古代においてほかに類例がない。
ここで実際の戦いが想定されているのだろうか。あるいは典礼共同体を軍隊として表現しているのであろうか。
いずれにせよ超自然的勢力も巻き込んだ終末における戦いとその最終的決着の展望の中に自分たちの現状を見ようとする。
その作成年代はヘロデ大王時代か。
第4洞窟から本書の6つの写し(4Q491−6)と類似文書の1つの断片(4Q497)が出土している。
日本語訳 日本聖書学研究所『死海文書』、前掲書、128−150(関根正雄、松田伊作訳)。
5.新都エルサレム文書(1−11QJN ar)
これはアラマイ語の文書で、1962年、J・T・ミリクが第2(2Q24)、
第5洞窟(5Q15)出土の本文書断片を公表したとき、そのどこにもエルサレムとは言われていないが、
新しい理想的な町エルサレムが書かれていると判断し、
「新都エルサレムの記述」(Description de la Jérusalem Nouvelle)という名称をつけた。
本文書断片はすでに第1洞窟(1Q15)からも出ており、また第4(4Q554、554a、555)、
第11洞窟(11Q18)からも出土した。
その書体から、前1世紀後半から西暦1世紀前半に写されたものと推定される(Puech,La croyance)。
これは4Q554の断片2第3欄に、
戦闘規定(1QM)第1欄で終末の最終戦争のときに滅ぼされるキティムの名があることによって、
終末の新都エルサレムを描いていることも確かめられた。その発想はエゼキエル書40−48(エゼキエルの律法)から得ている。
ただし、この文書は、小断片ばかりで、その本来の文書がいかなる構成になっていたか、明らかではない。
ただし、4Q554で、著者がエゼ40:3のように幻の中で一人の人によって町の外壁の長さを測りながら案内されたことが言われ、
これを手がかりとして読み始めると、おおよそその内容の検討がつく。
外壁を一周したあと、著者は町の内部に案内され、居住区や空き地、家、道路、広場などを見てまわるが、
その描写はきわめて現実離れしている。これは新しいエルサレムを描写したものとして、
本文書はフランス語でLa Jérusalem nouvelle、そこからJNの略号が由来する。
英語でNew Jerusalemと呼ばれ、NJの略号もある。
キルベト・クムランに移ってきた人々から見れば、エルサレムの神殿では伝統的な太陽暦でなく、
ギリシアの陰暦を採用して律法に背く祝祭が行なわれているので、その祭儀は汚れたものとなっている。
彼らはそのエルサレムと決別して荒れ野にやってきた。
しかし、彼らはエルサレムの神殿への思いは断ち切れず、終末の新しい神殿を待望し、
それを後述する『神殿の巻物』
も書きあらわしているが、その神殿がある都そのものについても、
終末の新しいエルサレムを夢見ていた。この新しいエルサレムへの待望は、新約聖書の黙示録にもある。
6.詩華集(4Q174Flor=4QFlorilegium)
ここに2サム7:10−14(1代17:9−13);
出15:17−18; アモス9:11; 詩1:1; イザヤ8:11; エゼ37:23(?); 詩2:1(解釈付き);
ダニ12:10と11:32(解釈付き); 申33:8−11(解釈付き);
33:12(?、解釈付き); 33:19−21(解釈付き)の抜粋が集められているので、
解読担当者J・アレグロは1956年にこれを詩華集と名づけた。
詩華集は美しい詩を集めたものということなら、この命名は適切ではない。
どういう考えで聖書の抜粋が集められたかとなると、それは終末の日の出来事にある。
それゆえ、ヤディンは1959年に、これを終末のミドラシュと名づけた。
研究が進められ、A・シュトイデルは、
1994年にこれにアレグロが「カテナ」(鎖)と名づけて発表した4Q177(4QCatenaa)と共にひとつの文書として、
そのそれぞれを4Q終末のミドラシュa、4Q終末のミドラシュbと名づけた。
その全体をもって、詩編1−2の注解となっている。
このように聖書の本文を集めて、そこに終末の日の出来事を読み込もうとして解釈が加えられている。
2サム7は、ダビデ王家からメシアが出ることを預言し、詩編2もメシア預言として受けとめられていたので、
当時のメシア待望観を知る上で、貴重な資料である。
メシアは王として、その国、その国の守護神の神殿、その神殿がある都と切り離しては考えられない。
国と神殿と都がセットで考えられていた。それゆえ、この4Q174は、4Q177と共に、
死海文書中のほかのメシア預言も含めて、「神殿の巻物」(後述)と「新都エルサレム文書」(前述)、
それに神の国について述べるダニエル書関連の文書も一まとめとして、その中に位置づけて解釈する必要がある。
なお、ミドラシュとは、聖書の本文の中に自分たちへの神のメッセージがあるはずだと「追求して」(ヘブライ語動詞「ダラシュ」)、
行なう解釈のこと(後述)。
日本語訳 拙著「クムラン教団におけるメシア待望観」(続)、月刊『世紀』1993年1月号89−96
7.証言集(4Q175Test=4QTestimonium)
縦23cm、横15cmの皮革紙一枚の上に30行の文字が書かれた文書で、
これは巻物の一部ではなく、単一のものであった。書体からハスモネア時代に書かれたもの。
ここに申5:28−29; 申18:18−19(サマリア五書の出20:21の本文);
民数記24:15−17; 申33:8−11; ヨシュ6:26および偽典ヨシュアの詩編(4Q378−379)の引用が並べられている。
これは、モーセのような預言者、王なるメシア、祭司なるメシアの到来を約束する旧約聖書の引用を列挙したものである。
終末のときに到来するであろう人物について旧約聖書が証言する引用が集められているので、証言集と命名された。
当時のユダヤには、終末のときに到来する人物として、サマリア人が待望していたモーセのような預言者と並んで、
王なるメシアと祭司なるメシアという二人のメシアへの期待があったことが、死海文書によってはじめて明らかになった。
この待望観がここで再確認され、またそのため根拠とされていた聖書の箇所も明らかなった。
これがイエス時代のユダヤ人のもとにあったメシア観であり、イエスをメシア、つまりキりストとする新約聖書とは、
いかなる共通点があるのか、いかなる相違点があるのか、判断するために重要な資料が得られたことになる。
また証言集のような文書がキリスト教の初期にあったことが、
教父文献(バルナバ書簡やキプリアヌスの著作)によって知られていたが、
それがすでにイエス時代以前にあったことがわかった。これも新しく得られた知識である。
またそれに伴い、新約聖書の著者が旧約聖書を引用するとき、
その著者が暗記していたものを引用することもあろうが、それだけでは説明されないことがある。
そのような場合、会堂に保管されている大きな聖書の巻物から引用するには困難が予想される。
そこで証言集のような聖書本文の抜粋集があって、これを利用したのではないかと、研究されている。
日本語訳 拙著「クムラン教団におけるメシア待望観」、月刊『世紀』1992年5月号84−91
8.第4洞窟出土メシアの黙示(4Q521=4QMessianic Apocalypse)
第4洞窟出土の「メシアの黙示」と題される断片は、前1世紀前半の筆写で、
断片2 iiiの第2行目でマラキ書3:24aを短縮して引用する。
そのあと、メシアである王の到来とその支配(「王笏」)を前にしての大地の歓喜をいう。
しかし、それに先立つ断片2 ii+4の第5−14行目で、メシア時代に主なる神が実現してくださる恵みを列挙する。
それはイザヤ書35:6−8; 61:1−2;詩編146:7−99から取られている。
9.メルキゼデク文書(11Q13=11QMelch)
第11洞窟出土のこの写本断片は、レビ25章、申命記15章、
イザヤ61章の聖書本文を解釈しながら終末について述べる中で、メルキゼデクに言及する。
メルキゼデクは、旧約聖書ではサレムの王兼祭司として創世記14:18―21; 詩110:4に出るが、
ここではそれとはまったく異なる人物像で現れる。第10のヨベルの年、つまり最後のヨベルの年は聖書では負債の免除の年であるが、
これを終末の解放の年と理解し、その解放者として天上の勢力の統帥がメルキゼデクと言われる。
彼は、光の将軍とも言われる天使長ミカエルのように考えられている。
このように彼は闇の将軍、ベリアルとその軍隊と対決する。
このメルキゼデクは最後のヨベルの年に、敵対勢力に神の裁きの復讐を行い、最終的勝利をもたらす。
これは新約のヘブライ人への手紙7:2−17に出るメルキゼデクを理解するために新たな光となる。
日本語訳
三好迪「主の祈りとヨベル理念−その社会・経済的背景−」、
『主のすべてにより人は生きる』、WAF刊行会編、リトン社、1992年、205−230
ハインツ・クルーセ「メルキゼデクは誰か」、『カトリック研究』31、NO.61−62(1992)1−19
10.「神の子」文書ないしアラマイ語の黙示(4Q246=4QAramaic Apocalypse)
本文書は、大きさ14・1×8・8センチで、葉書ほどである。
2欄あって、1欄に9行あり、1行は平均30−32文字である。
言語はアラマイ語である。第1欄の右側に破損があるが、第2欄はほぼ完全に読める。
本文書が注目を集めたのは、ここに「神の子」、「いと高きおかたの子」という表現が出るからで、
死海文書中に神の子のことが言われていると言って、話題になった。
また「大いなる」、「永遠の支配」という表現もあって、
天使ガブリエルがおとめマリアに告げた言葉(ルカ1:32−35)と類似する。
問題はその神の子で何が言われているのかにあるが、それは2サム7や詩編2で父と子の関係で言われる、
神に対するその王であるメシアのことらしい。
本書は、その用語からダニエル書と同系統の文書であることは確かである。
それゆえ、同系統の4Q243―5(4QpsDana−c ar=4QPseudo−Daniela−c)、
つまりアラマイ語の偽典ダニエル書断片と共に読むべきであろう。
本文書もかつてはそう呼ばれていた(4QPsDan Ad)が、「神の子」の尊称が出ているので、
「神の子」文書として知られている。それと共に、ここには「神の支配」ないし「神の国」についても言われており、
福音書を理解するために新たな光となる。
日本語訳 拙著「クムラン第4洞窟出土"神の子"文書(4Q146)」、
聖心女子大学キリスト教文化研究所紀要、『宗教と文化』第16号、平成7(1995)年、45−72
11.ナボニドスの祈り(4Q243prNab=4QpsDana ar)
前述の「神の子」文書と同系統の本書を、ここで取り上げておく。
この文書の解読者J・T・ミリクはこのアラマイ語写本断片4つを組み合わせて解読し、
これをとりあえず「ナボニドスの祈り」と呼んだ。主人公はナボニドスで、
これは新バビロニア帝国最後の王として既にアッカド語の粘土版文書によって知られていたが、
本文書発表と同じ年にハランで発見された石碑にも言われているのがわかった。
この事実も関心を引いたが、むしろ本文書の主題がダニエル書にもあるので特に注目された。
本文書の主題は病いにかかって7年間追放されたナボニドスが、あるユダヤ人の介入により至高なる神によって回復したという。
ダニエル書ではこの主人公が新バビロニア帝国の創設者ネブカドネツァルに代わるが、
この王が見た夢をダニエルが解釈し、そのとおり王は病いとなり、バビロンを離れ、7年間過ぎ、
そこで真の神に祈ると、病いを癒されたという物語(ダニエル3:1−33; 4:1−34)となっている。
このようにダニエル書の資料につながるような文書が得られたわけで、ダニエル書の解釈に新たな光となった。
日本語訳 拙著「クムラン第4洞窟出土ナボニドスの祈り」、
英知大学言語文化研究所紀要『言語文化研究』第2号、平成6(1994)年、1−9
D 聖書の解釈
12.神殿の巻物(11QT=11QTemplea-c)
この巻物は、ベツレヘム在住の死海文書の仲介人カンドーがもっていたところ、
ヤディン将軍兼教授が1967年6月の6日戦争のときに、
エルサレム旧市街戦終了の翌日そのカンドー宅に急行し、放出させた。
ヤディンは、その年の秋の考古学研究会でそのことを報告し、また同年のBA誌に公表した。
その後、全文を解読し、翻訳と解説を1977年に現代ヘブライ語で、1983年に英語で補足と訂正を加えて公表した。
クムラン第11洞窟にあったらしいといわれるこの巻物は、カンド―宅でも劣悪な状態で保存されていた。
固く巻かれたこの巻物は、上部が破損していたり、解けたチョコレートのように密着したりしていて、
その開陳には高度な技術を必要とした。この筋の専門家の協力を得て、細心の注意を払って、
この巻物の伝存する部分がすべて開陳され、写真に撮られた。
この巻物は死海文書の中では最大で、長さは8.75mに及び、全部で66欄ある。
始めは欠損しているが、欠損部は大きくはなかったらしい。
伝存する66欄は、終わりのほうに向かうにつれ比較的よく保存され、本文が読み取れる。
この筆写の時期について、ヤディンはまずそのヘロデ時代共通の書跡であることから、
前1世紀後半ないし1世紀の始めではないかと判断し、その著作の時期については、
「おそらくそれより少し以前」ではないかと考えた。
その内容の大半が神殿とその神殿がある都についてであるから、ヤディンは「神殿の巻物」(The Temple Scroll)と命名した。
それゆえ、その頭文字のTが略号となっている。
これが11Q19(11QTemplea)である。
そのコピーも2つ得られた。それが11Q20―21(11QTempleb-c)である。
それに第4洞窟出土の写本断片の中からもそのコピーが割り出された。
それが4Q524(4QRouleau du Temple)で、
これは前2世紀後半に筆写されたもので、この巻物の原作がそれ以前に遡るものであることを示している。
この巻物の特徴は、その著者がその著作を神によってモーセに与えられた律法であると信じていること、
ないし信じさせようとしていることである。それは、神が第1人称で語ったものとして書くことに現れている。
聖書の中で、神が第3人称で出るところも、第1人称に変えている。
たとえば、民数記30:2以下で、「人が主に誓願をする・・・」とあるのを、
主なる神が言ったことばとして「人がわたしに誓願をする・・・」と変えている。
このような文体で、聖書に加えた掟のところも書かれる。
それはまたその著者が神の名を書くときに角張った聖4文字を用いることにも表れている。
このようにその著者は自分が書くものを、モーセが言ったものとしてではなく、神が直接モーセに語ったものとして書く。
このようにこの巻物は、新しい律法(トーラ)と考えられていたのではないかと考える者もいる。
しかし、本書がほかの死海文書の中で創世記や申命記のように引用されることはないので、そうではなさそう。
内容として神殿が最重要の主題で、出エジプト記第35章以下の文体で、いかに神殿を建造すべきかを書く。
かつてダビデはその子ソロモンに神殿の設計図を手渡したとあるが(1歴代誌28:11−19)、
これが失われているので、著者はこれを補おうとしたことが考えられる。
ただし、著者はソロモンの神殿(1王6:1−38)、エゼキエル書の神殿(エゼ40−48)、
捕囚期以後の第2神殿から題材を選び、新しい神殿の構想を提示しようとしている。
この神殿は厳密な意味では終末のときに神が与えてくださる神殿とは異なり、
その前にイスラエルが建てなければならないものと考えているようである。
本書の序文では、読める文字は僅かだが、シナイ契約の更新が言われる(1−2欄)。
本論ではまずいかに神殿とその備品を作成すべきかを述べる(3−47欄)が、祭壇を言うところに来ると、
そこで捧げられる献げ物について(13−17欄)、続いて祝祭日について(17−29欄)述べ、
そのあとまた神殿の主題に戻って、その境内の建物について指示を与える(30−45欄)。
その祝祭日は、太陽暦にしたがって行なうべきものとする。
そのあと神殿がある都の聖性をいう(45−47欄)。つぎに主要な主題として律法の解釈がある(48−66欄)。
これは律法のそれぞれの規定をいかに守るべきかの指示で、これはハラハーと言われる。
ここに出るその解釈は、この教団の考えるところによるもので、4QMMTと同じようにミシュナにあるハラハーより厳しい。
このように人も聖なるものとなるようにとの心遣いを示す。清浄に関する法規(48−50欄)、
訴訟法(51と56欄)、祭儀上の法規(51−53)、偶像崇拝に対して(54−55欄)、
王に関する法規(56−59欄)、祭司とレビ人のための規定(60:1−15)、
占い、預言、偽の預言、偽誓(60:16−61:12)、軍規(61欄)、
流血の罪からの国土の保護(63:2−9)、家族法について(63:10−64:6)、
極刑(64:7−13)、人権を守るための規定(64:13−66:11)、近親相姦の禁令(66:11−17)と続く。
日本語訳 高橋正男著『死海文書』甦る古代ユダヤ教、講談社選書メチエ122、1998年(講談社)、
188−219(神殿の巻物の入手のいきさつとその巻物の概説)、235−268(全訳)
13.第1洞窟出土ハバクク書注解(1QpHab)
この文書は、第1洞窟で最初に発見された7つの巻物の一つで、壷の中にあった。
それゆえ、比較的保存状態がよく、13欄あって、各欄には底辺に3行ほど欠損しているが、元来17行あった。
第1欄の右半分と第2欄の中間には欠損があるが、第2欄の左から第13欄まで連続している。
欠損も含めて、全長は1.60mほどであったと思われる。縦は、最長の第4欄で13.7センチ、
それに欠損した行とその下にあった縁をあわせて7.5センチを加えたものが元来のものであったと思われる。
本書にしばしば言われる「キッティム」が作成時期を知るための手がかりであるが、これはローマのことである。
そうすると前63年のローマによるエルサレム占領がその作成時期を判断する目安となる。
これがそのローマによるシリア・パレスティナ支配が始まる以前か、以後かは意見が分かれる。
本書の内容は旧約聖書中の預言書の一つ、ハバクク書の注解である。
第1欄の始めにハバクク書1:2の引用があり、そこから同書2:20まで、
1つないし2つ、3つの引用を書いては、その引用について注解を挟んでいくという様式で書かれている。
このように連続注解となっている。同様の様式で、ほかの預言書および詩編の注解も見つかっているが、
ハバクク書注解の保存状態が最もよい。
その注解は、ペシェル(ペシャリームはその複数)と言われる。
1QpHabのpは、そのペシェルの略号。ペシェルとは、現在行われているような注解ではなく、クムラン教団独特の注解である。
その前提となっているのが、彼らの歴史観と聖書観である。
歴史観について言えば、この世界に起こる出来事はすべて神の計画によって起こっているということ(1QpHabVII1−6参照)。
この神の計画は、ラズ(r z)と言われる。これは、地上の人間には隠されていて、秘義である。
したって、ラズは「(神の)計画」とも、「秘義」とも訳される。神はその計画をご自分が選んだ特定の人物に示された。
その人物が預言者であり、彼らが書き残したのが預言書で、
その中に自分たちの時代や近未来の出来事が予め示されているのではないかと考え、その言葉の意味を追求した。
彼らは預言者が「後の時代」と言ったその時代に生きており、
身近に起こったことの中に預言者によって告げられた言葉の意味していることがあるのではないかと考えた。
このような信念をもって預言書を解釈した。他方、聖書観については、彼らの時代になると、旧約聖書の中でモーセ五書のほか、
預言書も聖書としてほぼ正典として確立していた。したがって、預言書が新たに作成される時代は過ぎて、
預言書を解釈する時代が来ているという信念があった。
このように彼らの預言書注解の中には、彼らの近過去、同時代に起こった出来事への示唆がなされている。
彼らの歴史に起こった出来事への示唆があるとはいえ、これを独特の表現で言い表そうとする。
登場する集団も人物も実名ではなく、偽名で示される。
それは「ユダの家」、「キッティム」、「(正)義の教師」、「悪徳祭司」、「偽りの人」、「アブサロムの家」などという。
したがって、それらがそれぞれ誰を指しているのか、議論されることとなった。
その中で特に注目されるのが「(正)義の教師」で、これはこの教団の創設にかかわる人物ではないかと目される。
この人物がだれのことか、その特定をめぐって議論が続けられてきた。
本書にはこの人物と対立するものとして「悪徳祭司」や「偽りの人」が登場する。
それゆえ、これらの偽名でだれのことが言われているのかも、共に考慮しなければならない。
このように本書はクムラン教団発生の謎を解く鍵を秘めた文書である。
日本語訳 日本聖書学研究所『死海文書』、前掲書、211−221(新見宏訳)
14.第4洞窟出土ナホム書注解(4Q169=4QpNah)
第4洞窟で発見されたナホム書注解は、その解読担当者アレグロ(J.M.Allegro)によって、かなり早く1956年に発表された。
公表される死海文書が少なかった当時、暫定的とはいえ、この研究発表は部外者にとっては貴重な情報源であった。
本書は、5つの断片からなっていて、断片1ー2は、2欄あったことを示しているが、第1欄は解読できない。
第2欄はナホム1:3bの引用とその解釈から書き始める。この第2欄にはナホム1:3ー6の引用と解釈、
断片3−4にある4欄はナホム2:12から3:10の引用と解釈を提示する。
断片5は僅かの文字しかない小さな断片。ここに示唆されている歴史的出来事が、
前1世紀前半のローマによるエルサレム占領までのことであるから、作成時期はこれよりさかのぼることはない。
ナホム書は、12小預言書のひとつで、アッシリアの都ニネベの陥落を告げるものとして前7世紀の終わりに書かれたもの。
このナホム書の解釈(ペシェル)を書いているのが本書である。
それゆえ、そこには、彼らの時代に起こった出来事への示唆がある。
しかも、本書によって、ヤワンがギリシアおよびその影響下のヘレニズム諸国のこと、
キティムがローマのことであることが、明らかになった。
またデメトリオスとかアンティオコスとか、歴史的人物の実名が出ているところもある。
前者はセレウコス王朝のデメトリオス3世エウカイロス(在位、前95−88年)、
後者はアンティオコス4世エピファネス(在位、前175−164年)、
また「怒りのライオン」とはアレキサンドロス・ヤンナイオス(在位、前103−76年)であるが、
F・ヨセフスが『ユダヤ古代誌』の中で言及するこの大祭司兼王によるファリサイ派虐殺に触れるところもあって、
歴史の資料としての価値が高い。
日本語訳 拙著「クムラン第4洞窟出土ナホム書注解−翻訳と解説−」、
英知大学論叢『サピエンチア』第28号、平成6(1994)、1−19
15.第4洞窟出土詩編注解A(4Q171=4QpPsa)
死海文書中詩編注解は第1洞窟から1つ(1Q16)、第4洞窟から2つ(4Q171と4Q173)が出土している。
その中で最も長く、ほかの文書との関連で最も重要なのが、第4洞窟出土の最初のものである。
それゆえ、これをここでは詩編注解Aという。その写本は、13の大小の断片からなっており、
解読担当者アレグロはまず1954年に予備的かつ部分的研究成果を発表した。
これは詩編第37の注解であったので、当初この写本は詩編第37注解と呼ばれた。
解読を進めていくと、この注解は4欄からなり、しかも第4欄では詩編第37のあと、
詩編第45の注解が続いていることがわかった。そのほかアレグロの研究発表には批判すべきところがあり、
H・シュテゲマンはじめ、ほかの研究者による修正意見も勘案して読まなければならない。
本詩編注解は4欄からなり、その各欄が27行からなり、全部で108行からなっている。
それに断片11と断片12は第五欄で詩編45の2節の解釈を続けるものらしく、
また断片13は詩編60の8−9節の引用とその解釈らしい。
本詩編注解が取り上げる詩編37はアルファベット詩で、1節、2節、3節へと、
各節の最初の用語がヘブライ語のアルファベットの順番で始まるよう技巧がこらせてある。
従って、各節ごとに論理的つながりはない。しかし、一貫して正しく貧しい人の運命と悪人の運命について述べている。
正しく貧しい人が悪人によって苦しめられ、その悪人が栄えていて、
神の正義の支配がないかに見える現実であるが、悪人はまもなく断たれ、正しく貧しい人が地を受け継ぐことになると言われる。
この詩編の注解者は、その悪人を教団の敵、特に「悪徳祭司」と「偽りの人」の中に見、
正しく貧しい人を教団の設立者である正義の教師とその追随者である自分たちのことだとする。
このように本詩編注解はペシェルであるが、具体的な歴史事件への示唆はほとんどない。
ただ教団が激しい内部抗争中にあり、異邦勢力の到来も意識し、時代の転換期にあって終末観も持っていたことが読み取れる。
ナホム書注解と同じようにファリサイ派、サドカイ派との抗争とそれが絡んだ抗争に触れているようなので、
その著作はナホム書注解と同じ時代か、前63年のローマによるエルサレム占領は述べられていないので、
ナホム注解より少し前に書かれたものかもしれない。
日本語訳 拙著「クムラン第4洞窟出土詩編注解1−翻訳と解説−」、
英知大学論叢『サピエンチア』第29号、平成7(1995)年、1−19
16.第4洞窟出土イザヤ書注解(4Q161―165=4QpIsaa-e)
ほかに第1洞窟からミカ書註解(1Q14)、ゼファニヤ書註解(1Q15)、
詩編注解(1Q16)、第3洞窟からイザヤ書注解(3Q4)、
第4洞窟からイザヤ書註解が5つ(4Q161−165)、
ホセア書注解が2つ(4Q166−167)、ミカ書注解(4Q168)、ゼファニヤ注解(4Q170)、
もう1つの詩編注解(4Q173)、第5洞窟からマラキ書注解(5Q10)が入手された。
そのほとんどがきわめて小さな断片で、なかにはその文書の内容がほとんと特定できないものもある。
その中で写本断片の数が最も多い第4洞窟出土のイザヤ書注解について指摘しておく。
それは5つの写本断片群に分類され、4Q161−165の番号がつけられている。
4Q161はイザヤ書第10章22−34、第11章1−5の注解、4Q162は同書第5章の数節の注解、
4Q163は同書第8章から第32章まであちこちから摘出した本文の注解、
4Q164は同書第54章の数節の注解、4Q165は同書第40章など数章からの本文の注解である。
この数量自体は預言書の中でもイザヤ書が特に好んで読まれていたことを示している。
内容的に注目されるのは、4Q161のイザヤ書注解Aで、
ここではメシア預言として有名なイザヤ11:1−9の引用が含まれ、
それは「ダビデの若枝」のことだと解釈している。このようにダビデの子孫からメシアが出るという彼らの待望観を表している。
日本語訳 拙著「クムラン第4洞窟出土イザヤ書注解1(4QpIsaa=4Q161) −翻訳と解説−」、
英知大学論叢『サピエンチア』第32号、平成10(1998)年、1−15
E 擬似聖書文書
17.第1洞窟出土外典創世記(1QGenAp)
第1洞窟で最初に発見された7つの巻物のひとつで、これは壷の中には入れられてはいなかったので、
保存状態が劣悪で、その開陳と解読に時間がかかった。はじめは本文書の性格も明らかではなく、
『外典ラメク書』とか『ラメクの黙示』と呼ばれたが、やがて聖書の創世記に基づいて、
これを自由にアラマイ語に訳したものであることがわかり、最終的には『外典創世記』と呼ばれることとなった。
その書体からこの写本は前25年頃から西暦25年頃に写されたと推定され、その作成は前1世紀と考えられる。
内容的に、これは創世記第1−15章についての一種のミドラシュのハッガダー、
つまりその意味を求めつつ、再解釈し、再話したもの。
クムラン教団の聖書研究の基本的姿勢はまず「律法を追い求めること」にあった。
それにまた預言書研究としてペシェルがあった。律法とはモーセ五書のことで、
そこには神のメッセージがモーセをとおして与えられ、神の霊を受けて書きとめられている。
その書の中に自分たちに向けられた神のメッセージを追い求めることを重視した。
この動詞はヘブライ語でダラシュという。ここから名詞のミドラシュという用語が来る。
このミドラシュこそ、当時のユダヤ教徒の聖書解釈であった。
律法の中でも律法の各規定を今、ここでいかに守るべきかの神の意志を追い求めたものとしてハラハーがある。
他方、律法にある物語にその神の意志を追い求めて再話したものをハッガダーという。
日本語訳 日本聖書学研究所『死海文書』、前掲書、236−246(伴康哉訳)
なお擬似聖書文書として分類される文書群は、第4洞窟出土の写本断片の解読が進むにつれ、きわめて豊富であることがわかった。
それはヘブライ語聖書本文に基く再話など書き換えの類で、多様なものを含み、その数量も大きい。
現在、それは公表されていて、DJDシリーズの中でも4巻に及ぶ(DJD XIII, XIX, XXII, XXX)。
F 詩文集
18.第1洞窟出土感謝の詩編(1QHa)
第1洞窟で最初に発見された7つの巻物の一つで、これは壷の中には入れられておらず、劣悪な状態で入手された。
それは皮革紙を束ねた2つの塊りで、スケニク教授が丹念にほぐしにかかった。
最初の塊は3葉の皮革紙からなっており、それぞれに4欄に文字が書かれていた。
もう一つの塊からは6欄、および小さな写本断片が得られた。
彼はこの写本解読の途中に病いに倒れ、その完遂を待たずに1954年に死んだ。
彼はその暫定的研究成果を早くからヘブライ語で発表していたが、その後の成果も含めて、
その死後1955年にN・アヴィガドをはじめ同僚たちによって、18欄からなる本文と、そのほか66の断片が発表された。
ここでは、その66の断片が位置づけられることなしに、発表された。
この18欄の本文が、その後の各国語への本文書の翻訳の底本とされた。
本邦初訳の「感謝の詩編」もそれによる(中沢洽樹、吉田泰訳、日本聖書学研究所『死海文書』、
本文邦訳159−205頁、註289−309頁参照)。
その後、1Q35が同文書に属するのではないかとの提案がなされた(J.T.ミリク)。
他方、スケニクの18欄は、正しく配列されているのかどうか、また66の断片はどこに位置づけるべきかの検討が始まった。
その先駆をなしたのが、J.カルミニャックで、その後E.ピュエシュが精力的にその課題に取り組んだ。
その結果、本文書は元来、始めの3欄は失われ、それに続いてスケニクの第17欄、
つぎにその第13−16欄、第1−12欄と続き、その間に諸断片が位置づけられることを明らかにした。
それは全部で25欄ないし28欄からなる文書ではなかったかという。このように彼は新しい欄の数え方を提案した。
たとえばスケニクの第1欄はピュエシュの第9欄にあたる。今日、この新しい欄の番号が用いられることもある。
また彼によると、1Q35は、1QHとは別の写本で、後者を1QHa呼び、
前者は1QHbと呼び、1QHbは2つの断片からなり、その断片1は1QHaのXV:27-38と、
断片2は同XVI:12-13と並行記事であるという。それに第4洞窟出土の同書の写本断片が6つある(4Q427−4Q432)。
本文書は詩編と似ており、およそ13回「主よ、わたしはあなたを賛美します」('wdkh 'dwny)で始まるので、
Hodayot(賛美ないし感謝)の詩編と言われる。日本語では「感謝の詩編」と訳されてきた。
作者は大いなる苦悩の中にあったが救い出されたことがあり、それをもとに神を賛美し、あるいは感謝している。
個人の嘆きの詩編の特徴も備えているが、教訓的な意図も見られる詩編である。
本書は、その作者が詩編など聖書に深く通じており、これにどれほど生かされていたかを示している。
これはまた死海文書の中で最も重い宗教性を含みもつ宗教詩ではないかと思う。
写本は紀元前100ー80年頃のものであるが、その書体から写した人は独りではなさそうである。
その作者も複数であったようで、その最初の作者が作成した詩に次の作者がさらに詩を加えていったようである。
「わたし」と言って自分のことを述べるその最初の作者はこの教団の創設にかかわった正義の教師かもしれない。
日本語訳 日本聖書学研究所『死海文書』、前掲書、159−205(中沢洽樹、吉田泰訳)
G 典礼文書
19.光るものの言葉(4Q504−506=4QDibHama-c)
『光るものの言葉』と言われる写本断片は、共同体の祈り、つまり典礼文としてまず指摘したい。
その中で、最も大きな写本断片を含み、最も古くて基本になるのが、4Q504で、大小合わせて49の写本断片からなる。
解読担当者M・ベイイエは、それを大きいものから順番に断片1、2、3と番号を付けて公表した。
しかし、番号は、元来の順序に従うものではない。解読担当者自身それを自覚し、
本来の順序を提案し、断片8から本文を翻訳し、解説している。
これを土台に批判的に再検討して、ピュエシュは各欄に幾つの行があったか、また本文書が幾つの欄からなっていたかを推し量り、
その再構成を試みた。
『光るものの言葉』(DBRY HM'RWT)という文字が、断片8の裏にあり、これが本書の表題であることがわかった。
「言葉」は祈りの言葉の意味であろう。「光るもの」とは、創世記1:14(また1QSX:1-8も参照)から取られ、
週日の一日を意味するものと思われる。このように実際に本文書には週の第1日から第6日まで、
それぞれの日に唱えられる祈りが書かれている。ただし、欠損部が多く、各週日に唱える祈りとして読める部分にはばらつきがある。
幾つかの写本断片から、日曜日は天地と人間の創造とこの人間の罪を想起する日、
水曜日は恵みとしての律法を想起する日、金曜日は犯した罪を認めて赦しを願う日、
安息日は特に神を賛美する日としていたのではないかと思われる。
20.安息日のいけにえの賛歌(4Q400−407=ShirShaba-h、11Q17、Mas1k)
この写本断片群はクムランの第4、第11洞窟とマサダで入手された。
写本は10で、その中、8つが第4洞窟、1つが第11洞窟、1つがマサダで入手された。
これは典礼文書の写本断片で、13の賛歌からなる。そのそれぞれの賛歌は、年間13ある安息日毎に用いるためのもの、
つまり太陽暦によると、年間安息日が52あるが、本書の写本断片群はその始めの13の安息日用の賛歌である。
そのそれぞれの賛歌は「安息日のいけにえのための賛歌」ということばで始まるので、これが本書の題名となっている。
またこの賛歌は天使の賛歌であり、天上の神殿における天使なる祭司の安息日礼拝を表現しているので、
「天使的典礼」(the Angelic Liturgy)とも言われる。これは、彼らが地上で行なう典礼を、
天上で行なわれる典礼と心を一つにして行なっていたことを示す。
典礼のこの性格は、キリスト教の典礼にも受け継がれ、特にそれは東方教会の典礼に残っているが、
西方の現在のラテン典礼にもまったくなくなってはいない。天上の典礼と心を合わせて、
この地上の典礼を繰り返し行うことにより、信仰共同体は共同体として聖化され、
五官では感じられなくても自然に神秘体験の道に入っていく。
典礼によって養われた神秘主義をあらためて考えさせてくれる。
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以上、ここに取り上げたのは、死海文書中、最も基本的なもので、
このほかにも、興味深い写本断片が数多くある。前述した擬似聖書文書と共に、比較的最近になって、
死海文書中の知恵文学も注目されるようになった(DJD XV, XXIV)。
そのほか詩文集と典礼文書に分類される写本断片も多様で豊富にある(DJD XXIX)。
その個々の文書については、追って紹介しよう。
それにしてもイエスの時代のユダヤにこれほど多様で豊富な文書があったとは驚きではないだろうか。
聖書として受容され継承されたのは、その中のほんの一部である。
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