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Y 正義の教師 −クムラン教団の起源を求めて−
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序
死海文書とはいかなるものか、その豊富で多様な文書の全体像を把握するよう努めてきた。
その文書を所有し、使用していたクムラン教団とは、いかなるものか、その議論についても、
エッセネ派を中心に追求されてきたことをすでに紹介した。これらのことを踏まえた上で、死海文書そのものを幾つか読むこととする。
死海文書の中には、「正義の教師」(日本語では「義の教師」と訳されてきた)という称号で呼ばれる人物が登場する。
これは、この教団の歴史的起源に関わりをもつ人物ではないかと思われ、その特定が試みられてきた。
死海文書中の正義の教師とは誰のことなのか、大いに議論され、それは今日も続いている。
われわれもその特定を目指して、正義の教師が登場する死海文書の主な箇所を読むことから始めたい。
死海文書の日本語訳は、まとまったものとしては、日本聖書学研究所が発行した『死海文書』(山本書店、1963年)しかない。
これは先駆的な邦訳死海文書だが、その発行後40年経った今日では、補完される必要がある。
ここでは新たに私訳を試み、掲載する。
その際、用語もできるだけ新共同訳聖書に合わせると同時に、従来の訳語も一部新しくした。
死海文書中に「正義の教師」が出るのは、
ダマスコ文書(CD)I : 11;XX:1;XX:14.28.32と
クムラン第1洞窟出土ハバクク書注解(1QpHab)I:13;II:2;V:10;VII:4;VIII:3;IX:9;XI:5、
それに第1洞窟出土ミカ書注解(1QpMi)断片10:7、第4洞窟出土イザヤ書注解3(4QpIsac)断片21、1、6、
第4洞窟出土詩編書注解A(4QpPsa)断片1−10、
第3欄、15;同第3欄、19;同第4欄、8ー10;第4洞窟出土詩編書注解B(4QpPsb)断片1、1、4;同2、1、2である。
その中で正義の教師の登場の時期について述べるCD I : 11と、
また悪徳祭司との関連で正義の教師が言われる1QpHab VIII:3;IX:9;XI:5は特に注目される。
ほかのところは正義の教師の歴史を知るために欠損があったり、写本断片があまりにも小さい。
N.B. T,U,Vなどローマ数字は、欄を意味し、
上付けの小さな数字は行を意味する。
[ ]は欠損を推定して補ったもの。空白部は欠損。
I.ダマスコ文書第1欄3−12行(CDI:3−12)
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3神は御自分を離れた彼らの背きのゆえに、
イスラエルと御自分の聖所から御顔をお隠しになり、
4彼らを剣に渡してしまわれた。
しかし、神は先祖たちの契約を覚えていてくださり、
5イスラエルに4残りの者を残し、絶滅させることはなさらなかった。
6バビロンの王ネブカドネツァルの手に彼らをお渡しになってから、
5390年の怒りの期限が来て、7神は彼らを訪れ、
イスラエルとアロンからひとつの植木の根を生じさせ、
8その地を7所有させ、8その土地の賜物をもって豊かにしようとされた。
彼らは自分たちの罪悪を自覚し、9罪深い人間であることを8認めたが、
1020年間、9盲目同然、道をさぐる人々のようであった。
10神は彼らの行いを見て、彼らが曇りのない心で御自分を追い求めていると理解し、
11彼らのために正義の教師を起こし、御心にかなった道に彼らを導き、
12終わりの世にあって欺く者の会衆に何をなさろうとしているかを、将来の世代に11知らせようとされた。
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解説
著者はこの第1欄(写真上)の序文でイスラエルの歴史をふりかえり、
エルサレムがバビロンの王によって攻められ、陥落した悲しい出来事を思い起こさせる(I : 3-4a)。
それは彼らイスラエルの先祖たちの「背きのゆえ」だったと、罪を告白する。
その背きは、彼らが主なる神と契約を結んだ(申4:44−28:68)が、
この契約を破ったためだという申命記史
(申1:1−4:43;28:69;29:1−34:12;ヨシュ、士師、1−2サム、1―2王)
全体を貫いて呼びかけられる歴史の反省を受け継いで言われる。
その結果、エルサレムは悲劇に襲われたが、それを「神はイスラエルとご自分の聖所から御顔をお隠しになったからだ」と言う。
この「聖所」とはエルサレムのこと。神の「顔」とは、神の現存のこと。
それはまたつづいて「剣に渡す」とも、さらにまた明らかに「バビロンの王ネブカドネツァルの手に渡す」とも言われる。
しかし、この契約破棄によって神とイスラエルの関係が終わったのではない(I : 4b-5)。
神は「先祖たち」、つまりアブラハム(創15参照)、イザク(創26参照)、
ヤコブ(創36参照)との契約を「覚えて」いてくださったという。
神はこの先祖たちに一方的に選んで、子孫と土地を約束してくださったが、神はこの約束のことばにいつまでも忠実でいてくださる。
その証拠に神はイスラエルの民を絶滅させられず、「残りの者」を生き残らせてくださったという。
つまり、この残りの者がいること自体が、神の選びと約束が続いているからにほかならないと考え、
その残りの者から「ひとつの植木の根」(I:7)が生じ、自分たちもそれに連なるものと考えている。
実は、ダマスコ文書の第1部(I-VIII, XIX-XX)は、このような申命記にある契約を前提とし、
これに基いて過去をふりかえる申命記史の精神を継承する説教なのである。
「バビロンの王ネブカドネツァルの手にお渡しになって」は、前6世紀にエルサレムが陥落したことをいう。
「なってから」は「なったとき」とも訳せる。「怒りの期限がきて」は「怒りの終わりに」とも「怒りの間に」とも訳せる。
「390年」とは言われないが、近似した表現が、第7の7週の終わりについて述べる1エノク93:9−10にある。
CDでは、エルサレムの陥落を怒りの期間の始めとして、それから数えて390年経って、神が訪れてくださったと言う。
その後20年の迷いの時期が過ぎて、正義の教師を起こしてくださったという(I:11)。
CDXX:13-15によると、その正義の教師の死後40年経ってメシアの時代が来ると考えていたらしい。
ここで390年とか、20年は何を意味しているのだろうか。
390はエゼキエル4:5にあるので、この聖書に基づく象徴的な意味で理解しなければならないという説明もある。
そうだとしても、何か歴史的な出来事の時をいうものではないかと、検討してみることができる。
実際に検討してみると、興味深いことが明らかになる。
現代の年代学では、バビロニアによるエルサレム陥落は、紀元前586/7年である(拙著『聖書年表・聖書地図』20頁参照)。
これをもとに数えると、神の訪れは紀元前196/7年、正義の教師の登場は176/7年ということになる。
その前者はパレスティナ支配がプトレマイオス朝からセレウコス朝に移った時期、
後者はアンティオコス4世エピファネスの登位の時期にあたる。
しかし、これらの出来事とクムラン教団の起源とは、どんな関係があったか、わからない。
他方、死海文書が書かれた時代に、現代の年代学は通用しない。ピュエシュ、ラアト(Laato, A.,)、
ストゥーデル(Steudel, A.,)によると、当時エルサレムの陥落は、現代の年代と比べると、
25/6年の違いがあるという。偽典の第2バルク書の冒頭によると、
ヨヤキン王がバビロンに移送されたのは同王の第25年である。
そうすると、それは前597年ではなく、前572年になる。
エルサレムが陥落したのはその10年後であるから、前562年ということになる。
これを基に数えると、その390年後の神の訪れは前172年、正義の教師が起こされたのは前152年となる。
紀元前172年は大祭司オニア3世の死んだ年にあたる。それでは、前152年に何があったのだろうか。
ここで、第1洞窟出土ハバクク書注解を見る必要がある。
ダマスコ文書の年代については、
A.Laato, The Chronology in the Damascus Documennt of Qumuran, RQ 15(1992)
605-607 É, Puech, La Croiyance des ésseniens en la vie future, II, Paris.1993, 506, n, 29
A.Steudel, in the Texts from Qumran, RQ 16(1993)225-246
U 第1洞窟出土ハバクク書注解(1QpHab)第8−12欄
すでに述べたように、クムラン教団はかつての預言者のことばの中に彼らの時代ないし近未来のことが予告されているのではないかと考え、
そのことばの意味を追求した。これがペシェルといわれる彼らの預言書の解釈法であるが、
その解釈の中には彼らの時代の歴史的事実が示唆されていることがある。
このハバクク書注解には正義の教師に言及するところがあり、その人物を特定するためにこの注解はまたとない資料となる。
ここで正義の教師は悪徳祭司と言われる人物と対立する一方、偽りの人と言われる人物とも対立する。
特にその悪徳祭司との関係に注目し、この人物が誰かを特定することによって、正義の教師が誰かも浮かび上がると思われる。
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翻訳(第8−11欄:写真上は第11−12欄)
[ ・・・・3確かに富は高ぶる男を欺き、彼は4休みを得3ない。
4彼は陰府のように喉を広げ、死のように飽くことがない。
5すべての国は彼のもとに集められ、すべての民は彼のもとに結集される。
6その彼らのすべては、彼に対して嘲りのことわざを吐かず、
謎の風刺を浴びせないだろうか。
7災いだ、自分のものでないものを増やす者は。
いつまで自分の上に8重荷を7積むのかと言うだろう。 [2:5-6]
8 その解釈:悪徳祭司に関するもので、
9彼はその任務の始めには真の名をもって呼ばれたが、10イスラエルを
9治めるようになると、
10その心は尊大となり、神を捨て11富の10ゆえに掟に背いて悪に手を染め、
11神に反逆した不法の人々の富を奪って集め、
12民々の富を取り上げて、罪深い悪を自分に増し加え、
13[忌まわ]しい12道を13あらゆる汚いけがれをもって働いた。
突然、14お前に噛みつく者が13立ち、
14お前を思い悩ます者が目覚め、お前はその獲物にされないだろうか。
15まことにお前は多くの諸国を略奪したので、諸国民のすべての残り者はお
前を略奪する [2:7-8a]。
16 [その解釈:]反逆し、17[神の掟を破っ]た
16祭司に関するもので、
17 [彼らは]
\ 1彼にその悪徳の裁きのゆえに打撃を加え、恐ろしい2苦痛を彼に行い、
彼の肉の体に復讐を果たした。
・・・
8人の血を流し、地と町とその中に住むすべての者に不法を行ったがゆえに
[2:8b]。
9その解釈:[悪]徳祭司に関するもので、10正義の9教師と10その会議の
人々への9[悪行の]ゆえに、10神は彼をその敵の手に渡し、11撃って
10彼を屈辱させ、12その選びの者に対して
11悪を行ったゆえに魂の辛苦の中で絶えさせようとされる。
12災いだ、自分の家のために悪い利益をむさぼり、13高い所に巣を12設け、
13災いの手から救われようとする者は。お前は14自分の家に対して13恥ずべき
ことを謀り、
14多くの民の滅び(を招き)、お前の[魂]は(に)誤りを犯す。なぜなら15石[は]
石[垣から]叫[び]、梁は建物から[それに答]える [2:9-11]。
16[その解釈:その祭司に]関するもので、彼は・・・
17
] 1その(町の)石は圧迫によって、その木の梁は強奪によってあるように
した。
・・・
Ⅺ 2災いだ、3自分の憤りに酒の怒りを加えて2自分の隣人たちに飲ませ、
3彼らが弱るのを見ようとする者は [2:15]。
4その解釈:悪徳祭司に関するもので、彼は
5正義の教師を迫害し、6自分の憤りの5嫌悪をもって
彼を困惑させようとした。
6その捕囚の家に、休息の祝祭のとき、
7贖罪の日に彼らの前に現れ、
8彼らの休息の安息日、断食の日に彼らを困惑させ、
7よろめかせようとした。
9栄光よりも恥辱に8お前は飽かされる。9お前も飲んで、ふらつくがよい。
10主の右の手の杯がお前に向かって、恥辱が11お前の栄光の代わりにまわって
くる [2:16-]。
12その解釈:自分の恥辱のほうが栄光より大きい祭司に関するものである。
13彼は自分の心の包皮に割礼をせず、
14渇きを止めるために酔いの13道を歩んだ。
しかし、15神の14怒りの杯は15彼を呑み込み、さ[らに]
そして苦痛
16
17[レバノンに加えられた不法がお前を覆い、獣も絶えて、]
Ⅻ 1'お前を恐れさせる'。お前が人の血を流し、
国中で不法を町とその中の住民に対して行ったからだ[2:17]。
2この言葉の解釈:悪徳祭司に関するもので、
3彼が貧しい者たちに対して報いたことの彼の報い2を彼に果たすための
ものである。
3レバノンとは4教団の会議のこと、獣とは5律法を4実践するユダの単純
な人々のことであるからだ。6彼が貧しい者たちを絶やそうと目論んだよ
うに、5神は彼を裁いて絶やそうとされるからである。7町で6血を流し、
7国中で不法を[2:17]6と言われる。7その解釈:町とはエルサレムのこ
ことで、8その中で悪徳祭司は忌むべき行為を働き、9神の聖所8を汚した。
国中で不法とは、ユダの町々のことで、10(そこで)彼は貧しい者たち
の富を掠め取った。・・・
解説
まずその悪徳祭司について、第8欄8―13行で、ハバ2:5−6(太字イタリックはその聖書の引用文)を解釈して、
その任務の始めは善良であったが、
やがて背教者となって堕落したことが示唆される。第11欄4−8行でハバ2:15を解釈して、
その悪徳祭司が正義の教師を迫害したことを言う。
ここでその悪徳祭司は「捕囚の家」と言われる正義の教師がいたところを、安息の祝祭の日に襲ったことが示唆されている。
その日とは、贖罪の日のことらしい。またその日は悪徳祭司も安息すべき日であるのに、
それを守っていないところから、彼はクムラン教団の歴とは異なる暦に従っていたのではないかと思われる。
そのあとの第12欄2―10行で、ハバ2:17を解釈して悪徳祭司が「貧しい者たち」と言われるクムラン教団の人々を攻撃し、
これを絶やそうとしたことが示唆されている。
他方、この悪徳祭司は第10欄1―2行では、圧迫と強奪によってエルサレムの建造に努めたこと、
また第9欄2行、11行、第12欄5行では惨めな最期を遂げたことが示唆されている。
ここでその悪徳祭司とは誰のことかということになるが、その最も考えられる人物が、マカバイのヨナタンである(後述)。
彼はマカバイのユダの兄弟で、ユダの死後その後継者として戦いの指揮を取った。
ユダがエルサレムとその神殿からアンティオコス四世エピファネスの軍隊を追っ払う戦い(前167―164年)に成功し、
なお戦い続けて死んだが、その後継者として選ばれた(1マカ9:28―31、在位前161―143)。
彼は政治的に有能な総統で、ユダヤの復権とエルサレムの再建に成功したが、宗教的には無関心であった。
はじめはユダヤの人々に受け入れられていたが、
やがてアンティオキアのセレウコス王朝の内紛を利用してエルサレム神殿の大祭司に任命してもらうに及んで、
暴力と強奪に手を染めた。彼がエルサレムの再建にも努めたこと(1マカ10:10―11)も、
惨めな最期を遂げたこと(1マカ12:39―53、また13:23参照)もマカバイ記に書かれている。
さて、エルサレム神殿では大祭司ヤソン(在位、前175―172年)のあと、
ツァドク系でないシモンの子メネラオス(在位、前172ー162年)が大祭司職を買収してその地位に就いた(後述)。
その後継者として、再びツァドク系の大祭司アルキモス(在位、前162―159年)が就任した(1マカ7:13―17)。
これは獰猛で乱暴きわまりない大祭司であったが、戦いの始めからこのときまでマカバイ兄弟と協力し、
共に戦ってきたハシダイたちは、この大祭司の就任に満足してか、マカバイ兄弟から離れ去ることとなった。
その大祭司アルキモスの死後、フラビウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』(XX・237)によると、
大祭司織は空位になっている。その空位の後、大祭司になったのが、ヨナタンで、
彼はセレウコス朝のアレキサンドロス・バラスによりその任命を受けている(1マカ10:15―20、また1マカ10:38参照)が、
それは「第160年」だった。これが西暦では、まさに前152年にあたる。
そこで、かなりの蓋然性をもって言えるのは、ハバクク書注解に出る悪徳祭司とは、
この大祭司になったヨナタンのことであり、
正義の教師とはそのヨナタンによって迫害された人物ではないかということである
(G・ヴェルメシュ、T・C・ミリク、W・シュテーゲマン、特にJ・マーフィー・オコナー)。
つまりアルキモスの死後、大祭司は空位であったが、その任務を果たす人物がいたはずで、
それはツァドク家系の人物であったと思われるが、ヨナタンが大祭司に任命されることにより、
お役ご免になり、追っ払われたのではないか。こう推論される。
この人物がハシダイたちのところに来て、正義の教師、つまり正統な教師と呼ばれるようになったのではないか。
この推論は、その後ヨナタン王文書(4Q448)の解読によってさらに強い支持を受ける。
珍しくヨナタンの実名が出るこの文書断片は、E・ピュエシュの分析によると、
まだ善良な指揮官だった時代のヨナタンのために祈る文書の写本断片だという。
それにまた彼の推論によると、正義の教師は、アルキモスの死後その空位の間に大祭司の代行者であったのではなく、
れっきとした大祭司だったのではないかという。この人物がヨナタンによる大祭司職簒奪に伴い追放され、
その名前さえ意図的に歴史から抹消されたのではないか、
つまりcondemnatio memoriae(記憶抹消判決)されたのではないかという。
その追放された人物がエルサレムの神殿と町を去り、その同志たちと荒れ野に逃れたのではないか。
このように悪徳祭司をマカバイのヨナタンと見て、正義の教師をこのヨナタンに追われた大祭司ないしその代行者と考えることにより、
ダマスコ文書第1欄に書かれている年数の意味もいっそうよく読みとることができる。
この正義の教師についての説明はまだ仮説の域を出ないが、今後の研究にあたって前提するのにもっともふさわしいものといえよう。
この推論は、ヨナタン王文書(4Q448)の解読によってさらに強い支持を受けることとなる。
V ヨナタン王文書断片(4Q448)
本文書の概要
写本断片は皮革紙で、大きさは縦17.8、幅9.5cmである。
まず上部に偽典詩編と言うべきものが10行書かれており、これをA欄とする。
その下部に右と左の2欄に、上部の詩編に付加するかのように文が書かれている。この右には9行の文があって、これをB欄という。
左にも9行あって、これはC欄という。文章はヘブライ語で、書体は通常ではなく、半草書(semicursive)で、
これが判読を困難した一因でもあった。ヘブライ語は右から左へと書くので、右をB欄という。
A欄の4行目は空白であるから、実際には9行である。この9行は文頭にハレルヤの文字があり、
そのあと8文字が読めるが、さらにその左に幾つ文字があったかは、幅9.5cmの断片では欠損してしまっている。
ただし、8−9行目に第11洞窟出土の偽典詩編の一部と共通しているので、ここではその欠損を補って読むことができる。
こうして、ピュエシュはその幅が少なくとも14cmはあったのではないかと見る。
ヤルデーニ以来多くの学者は、B欄とC欄の写し手は同一人物だが、それはA欄の写し手とは別人らしいと考える。
この皮革紙には巻いて保存するための帯留めが右端にあり、そこには帯もついていた。
またこの写本の左に、別の欄が続いていたことが十分考えられる。このような写本断片は珍しく、ほかに4QDbしかない。
これだけでも、この写本断片の特異性がわかる。
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A欄:8−9行は前に述べた偽典詩編にある語句が読めるので、ここにその偽典詩編に類似した詩編があることがわかる。
ヘブライ語の旧約聖書にあるのは正典詩編で、それは150編である。
しかし、シリア語訳の旧約聖書(ペッシータ)には、その150編以外に、詩編151−155がある。
これは偽典詩編と言われる。この詩編151は70人訳でも伝わっている。
シリア語訳聖書の偽典詩編151−155はクムラン第11洞窟からも、ヘブライ語で出土し、すでに公表されている。
シリア語訳偽典詩編154にあたるそのヘブライ語の詩編が、クムラン第11洞窟出土詩編a.第18欄(11QPsaXVIII)である。
A欄の詩編はその偽典詩編と比べられ、シオン、エルサレムに言及するところから、ユダの住民を解放し、
エルサレムの神殿を守る主なる神を賛美するものである。
これは、アンティオコス4世エピファネスからの解放と、
神殿の清めと奉献を祝った前164年キスレウの月の25日に際して歌われたものかもしれない。
BーC欄:写本断片の下部の右に書かれたこのB欄は、その左にC欄があるので、
1行に幾つの文字が書かれていたかがわかる。その2行目に「ヨナタン」の名が出る。
それには「王」という称号が付けられている。この作者はこの王のため祈っている。
この「ヨナタン」の名はC欄の8行目にも出るが、ここでは「王」という称号は付けられてはいない。
このヨナタンについて、それが、アレキサンドロス・ヤンナイオスのことか、マカバイのヨナタンのことか、意見が分かれる。
ヨナタン王文書(4Q448)訳文
A
1 <アレルヤ>
賛歌、詩[・・する X についての]
2 あなたはあなたの[慈し]みをもって愛し
3 あなたは[・・・]の上に権能を有し、
4 空白
5 [あなたの]敵たちは[諸国民(?)の・・・]を恐れ、
6 多くの者を彼は[・・・あなたの]前で破壊し、
7 海の淵に、[彼はこれらを投げつけ、
見よ、善人に向けられる主の目は憐れみを垂れられる]。
8 彼を誇りとする者には、彼は[その慈しみを大きくし、
危急のときには彼らの魂を救い出される。
主は賛美されますように]。
9 仇の手から貧しい者を[8贖ってくださるおかた、
9非のうちどころのない者を悪者の手から救い出し]、
10 シオンにご自分の幕屋を[9張り、
[10エルサレムに永遠から永遠に居を構えられる]おかたは。
(アレルヤ)
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B
1 起き上がってください、聖なるかたよ、
2 ヨナタン王のために、
3 またあなたの民の全集会(のために)、
6 天の風の
5 四方に(離散している)
4 イスラエル(のために)
7 そのすべてに平和があるように、
8 またあなたの国のために。
9 あなたの御名が賛美されますように。
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C
1 あなたの愛のゆえに、[・・・・・・]、
2 昼の間、また[・・]から夕まで[・・感謝
して(?)・・]
3 あなた[たち]のために[・・・]
近づき、
4 [地(?)]のために祝福しようと彼らを
訪れ
5 [・・・]呼ばれるあなたの名のために
6 国が祝福されるように[・・・]
7 また[彼/彼ら(?)]の戦いの
遂行のために[・・・]、
8 ヨナタンとすべての(?)あなたの民[・・・]
9 [近づ]いて・・・
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若干の解説
A欄―1行目:文頭に「アレルヤ」が出る。アレルヤで始まる詩編は、ただ一つの例外を除いてほかにない。
その例外が、前に述べた第11洞窟で出土したヘブライ語の偽典詩編である。
それにしたがって、ヤルデーニは、そこに「アレルヤ、エッサイの子ダビデの詩編」とあるように、
ここでも「アレルヤ、[・ X ・の]賛歌」と書かれていたのではないかと考える。
しかし、この「アレルヤ」は、次の行から行頭はこの「アレルヤ」のあとの語句の位置にあるので、欄外であり、加筆らしい。
そうすると、「[・ X ・の]賛歌」と始まる詩編はまったくない。
それゆえ、ピュエシュは、詩編30、67、68などのように、「賛歌、詩・・・」と始まっていたらしいと考える。
さらにそのあと[・・する X についての]が続き、2行目と共に、
「あなたがあなたの慈しみをもって愛する X についての詩」となっていたのではないかと推論する。
こうして、ここでだれか人物のことが言われていたのではないかと考え、
これが6行目の主語「彼」として出るのではないかということになる。
確かなこととしてこの読みかたを訳文に出すことはできないが、この推論は興味深い。
8−10行目:8行目の「彼を誇りとする者には」、9行目の「仇の手から貧しい者を」は、
第11洞窟出土詩編a.第18欄の第17−18行の本文に、
また10行目の「シオンにご自分の幕屋を」は同第11洞窟出土詩編断片に推定される本文に出るので、
その前後の文をこの第11洞窟出土詩編断片を参考に補ってみることができる。
7行目の[見よ、善人に向けられる主の目・・・]から始まる、10行目までのカッコ内の補足は、こうして推論されたものである。
B欄―1行目:「起きあがってください」は、「目覚めてください」とも訳すことができる。
この動詞は、詩編でも神の介入を願うところで用いられている(詩編7:7;44:24;59:5)。「聖なるかた」は、神の呼び名。
2行目:「起きあがってください」と共に用いられる、2行目の「のために」(ヤルデーニ、ピュエシュなど)という前置詞は、
「に対して」(ルメール)とも読める。この場合、ヨナタン王を悪者と前提して、これに対して立ち上がるよう願うこととなり、
1−2行で文は完結する。この場合、3行目で文が始まり、3行目と5行目の「(のために)」の補いは不要となり、
ヨナタン王の悪政から守られて、その集会とイスラエルに平和があるようにと願うこととなる。
しかし、この本文の作者が前提とする歴史的背景を考えずに読めば、3行目の接続詞「また」、
「と」は、ここに新しい文の始まりがあるというより、2行目の前置詞を受けて続けていると読め、
8行目に出る同じ前置詞も「のために」を意味していると思われる。
それゆえ、この文は、ヨナタン王を承認して、その王のために、
また集会とイスラエルのため、また神の国のために祈っているものと読める。
この両者の読みを比べて、前者の可能性を退けることはできないにしても、後者のほうが、論旨が自然だと思われる。
C欄―この欄では幾つかの単語は明らかに読めるが、その前後の文字は不明で、一つの文も推論できない。
従って、ここで主題が何か、何を言っているかも明らかにではない。
ただ、エルサレムの神殿ないし町、戦い、祝福という用語がある。
それに8行目に「ヨナタン」の名が出る。そこから、エルサレムに戦いがあり、ヨナタン、民、国のために祝福を願うものかもしれない。
1行目:「あなたの愛のゆえに」ないし「あなたは愛して」と読めるが、それ以外は不明。
ヤルデーニは「イスラエルを愛して」と推論するが、これを認める学者はいない。
ピュエシュは「敬虔な人々を愛して」、ほかに「あなたの愛のゆえに、わたしは学び」などと読むこともできる。
4行目:「訪れ」は「訪れてください」とも読めるが、文におけるこの語の位置がわからないので、どちらとも言えない。
5行目:「呼ばれるあなたの名のために」で、エルサレムの神殿、そのエルサレムの町が考えられている。
6行目:「国が祝福されるように」は、「・・・を祝福するために、国を」とも読める。
7行目:明らかに「戦い」と読める。「の遂行のために」はピュエシュによる。
8行目:ヤルデーニは「ヨナタン王」と読むが、これは「王」にあたるヘブライ文字は明白でないので、
B欄2行目の「ヨナタン王」を参考に翻訳したものであろう。ピュエシュによると、
「ヨナタンとすべてのあなたの民」と読める。したがって、ここでは「王」とは言われていない。
ヨナタンの名が出るこの文書断片は、マカバイのヨナタンを意味するのか、
またはアレキサンドロス・ヤンナイオスを意味するのか議論されているが、
E・ピュエシュの詳しい分析によると、これはまだ善良な支配者と思われていた時代のヨナタンのために祈る文書の断片だという。
確かにヨナタンは王ではなかった。公式には、ヨナタンは王ではなかったが、
一般民衆にとっては王と受け止められていたのではないかという。
それに正義の教師は、アルキモスの死後その空位の期間中に大祭司の任務を果たしていた人物ではなく、
れっきとした大祭司であった人物ではないかという。この人物がヨナタンによる大祭司職簒奪の後に追放され、
その名は意図的に歴史の中から抹消されるようにされた。
この人物が信徒たちと共に荒れ野に逃れた。その信徒たちは、紀元前2世紀前半にその名が認められるハシディーム(ヘブライ語)、
ハシダイオイ(ギリシア語)。
彼らはマカバイ戦争のはじめアンティオコス4世エピファネスに対してユダ・マカバイと共に戦った
(1マカ2:29−30.42)が、エルサレム神殿の清め(前164年)が終わると、マカバイの政策に賛同するものと、
反対するものとに分派することになった(1マカ7:12−18参照)。
このように同じハシディムからエッセネ(アラマイ語のハサイヤから)派とファリサイ派が出てくることとなった。
おそらく紀元前152年、ヨナタンが大祭司職に任命されたとき、
多くのハシディムがファリサイ派に与し、正義の教師はエッセネ派と共に荒れ野に向かい、
ここで新しい共同体を創設することとなったことが考えられる。
このとき、マカバイによるセレウキア朝のカレンダー採用もエッセネ派の分離と共同体創設に無関係ではない。
その中心人物として正義の教師が大きな役割を果たしたことが考えられる。
結論
「悪徳祭司」はだれかについて、それはマカバイ以前のだれか、ないしメネラウス(A.Michel, H.H.Rowley)でもなく、
マカバイのユダ(van den Woude)でもなく、シモン(F.M.Cross, R.De Vaux, 1956)でもなく、
ヒルカノス1世(R.De Vaux, 1956)でもなく、
アレキサンドロス・ヤンナイオス(M.Delcor, J.M.Allegro, W.H.Brownlee, M.H.Segal, J.van der Ploeg, F.F.Bruce)でもなく、
ヒルカノス2世(A.Dupont-Sommer)でもなく、その後のヘロデ時代、ローマ時代のだれかでもなく、
マカバイのヨナタンではないかとされる(G.Vermes, 1953;J.T.Milik, 1957;R.de Vaux, 1973;F.M.Abel-J.Starcky,
1961;G.Jeremias, 1963;H.Stegemann;M.Hengel, 1974;J.Murphy-O'Conner, H.Bardke, É.Puech)。
なお、J.Carmignac, Qui etait le Docteur de Justice ?, RQ 10(1980), n.38, 235-246参照。
カルミニャックは、義の教師をF・ヨセフスがその著作『ユダヤ戦記』
(I:73−80のアリストブロス1世についての中)と『ユダヤ古代誌』(XIII:304−311のアリストブロス1世の中)
で述べるエッセネ人ユダではないかという。
マーフィ・オコナーは
(J.Murphy-O'Connor, Juda the Essene and the Teacher of Righteousness, RQ 10(1980), n38, 579-585)、
その説を評価し、自説と両立するという。
参考文献(4Q448について)
E.and H.Eshel, A.Yardeni, A Scroll from Qumran which includes Part of Psalm 154 and
prayer for King Jonathan and his Kingdom, Tarbiz 60(1991), 295-324(ivrit);
Id., A Qumran Composition Containing Part of Ps.154 and a Prayer for the Welfare of King Jonathan and
His Kingdom, IEJ 42(1992)199-229
Id., Rare DSS Text Mentions King Jonathan, BAR 20/1, 1994, 75-78
G.Vermes, Qumran Forum Mischellanea I, JJS, 43(1992), 299-305
É.Puech,Jonathan le prêtre Impie et les débuts de la Communauté de Qumrân.
4QJonathan(4Q523) et 4QPsAp(4Q448), RQ 17(1996)241-270
A.Lemaire, Le roi Jonathan à Qoumrân(4Q448, B-C), Qoumrân et les manuscrits de la mer Morte,
Un cinquantenaire, Collectif sous la direction de E.-M.Laperrousaz, 22000, Paris, 55-68
N.Avigad, a Bulla of King Jonathan the High Priest, IEJ 25(1975)8-12;A Bulla King Jonathan, ibidem,
245-246
拙著〔クムラン第4洞窟出土ヨナタン王文書断片(4Q448)−翻訳とその問題点―、
『紀要人間文化』、英知大学人間文化研究室4(2001)49−63
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Excursus [特別寄稿] マカバイ時代の歴史
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死海文書を残したキルベト・クムランの住民の起源とその後の経過を知るために、
マカバイ時代の政治史および宗教史をある程度念頭に入れておく必要がある。
ここでその主な出来事を指摘しておく。
なお、拙著『聖書年表・聖書地図』(女子パウロ会発行)の61−62頁にある地図とその説明も共に参照。
(写真下は現トルコのアンタクヤ、古代のアンティオキア、オロンテス川の両岸に町が発達、セレウコス王朝の都であった) |
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I.マカバイ戦争前史
A)セレウコス王朝、パレスティナの支配を始める
a) アンティオコス3世(前223−187)
前202−198年に、シリアのアンティオキアに都をもつアンティオコス3世は、
エジプトのアレキサンドリアに都をもつプトレマイオス5世に戦いを挑み、勝利し、
コエレ・シリア(パレスティナとシリア)を支配下においた。
このとき、エルサレムの住民はアンティオコス3世を歓迎したようである。
F・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』XII,136−144によると、
アンティオコス3世はユダヤ人がアクラ(エルサレムの砦)にいるプトレマイオス軍の駆逐に協力してくれたということで、
ユダヤ人に好意を示した。彼は神殿に対する援助とユダヤ人の律法遵守に理解を示した。
詳細は別にして、一般的にそうであったであろう。他方、前193年にアンティオコス3世はプトレマイオス5世と和解するが、
その背景に地中海東部に及んできたローマ軍に対する共同戦線を準備する必要が出てきたことがあろう。
F・ヨセフスの同書XII,154によると、アンティオコス3世は娘クレオパトラをプトレマイオス5世に嫁がせ、
嫁入財産としてコエレ・シリアなどを与えたとある。その結婚は事実であろうが、
コエレ・シリアなどの主権を渡したというのは事実ではない。
この頃、ローマが台頭してきて地中海東部にも影響を及ぼしはじめるので、
このことも当時のこの地域の国際関係を知る上で無視できない。
前3世紀、ローマはイタリア支配達成(前275年頃)に続いて、地中海西部の覇権をかけてカルタゴと戦いを重ね、
その影響はなかったが、カルタゴを撃ち破ってからその存在が感じられるようになる。
第2ポエニ戦争のとき、ハンニバルはマケドニアのフィリポス5世と同盟し(前205)、
ローマを牽制しようとした。ロ−マはマケドニアと対立しているギリシア本土のエトリア諸都市と同盟してそれに対抗した。
カルタゴを撃ち破ってから、ロ−マはマケドニアを攻め、
またロ−ドスとペルガモンの訴えに答えてギリシア諸都市を守るためと言う口実のもとにフィリポス5世を降伏させた(前197)。
ハンニバルはセレウコスの宮廷に逃げ込んだが(前194)、
まだこの時点ではロ−マはアンティオコス3世を攻める意図をもってはいなかった。
アンティオコス3世もロ−マとの友好関係を持とうとして、ロ−マの元老院に使節を送ったりしたが、交渉がうまくいかなかった。
かえって、エトリア諸都市に促されてギリシアからロ−マの影響を除こうとすることになった。
そのため、ロ−マの元老院はセレウコス王朝に対し、ルキウス・コルネリウス・スキピオンを頭に立て、
その兄弟アフリカのスキピオンを伴わせて遠征隊を送ることを決定した(前191年)。
前189年、ロ−マ軍はアンティオコス3世をマグネシアで破り、前188年フリギヤのアパメアで誓約を彼に誓わせた。
この誓約がその後のセレウコス王朝の政策を定め、その支配下にある諸国はそのあおりを受けることになる。
誓約の内容は、アンティオコス3世の次男アンティオコスを人質としてローマに送ること、
タウロス山脈以西の領土を断念すること、15000タラントの課徴金を怠りなく納めることにあった。
この課徴金が重くのしかかり、アンティオコス3世はその金銭をまかなうためエラムのベル神殿を襲い、金品を略奪しようとした。
そのため、彼はエラムの民の怒りを買い、殺害された。
Fawzi Zayadine, La campagne d'Antiochos III le Grand en 219-217 et le siège de Rabbatamana,
RB 97(1990)68-84
b)セレウコス4世(前187−175)
アンティオコス3世が殺害されると、その長子セレウコスが王位を継承した。
彼は父がロ−マに誓約した重荷を負わされ、ローマに対する反感も持ったようである。
ローマも彼に好意をもたず、人質に取っていたアンティオコス3世の次男アンティオコス(=セレウコス4世の兄弟)を解放し、
その代わりセレウコス4世の子デメトリオスを人質とするよう要求した。
解放されたアンティオコスはアテネに留まり、デメトリオスが人質としてローマに送られた。
まもなくセレウコス4世は、自分の宰相ヘリオドロスの扇動にあって殺害された。(このヘリオドロスについては後述)
c)アンティオコス4世エピファネス(前175−164)
セレウコス4世が殺害されると、アテネにいたアンティオコスはペルガモンに赴き、
その王エウメネス2世によって王冠を受け、その兄弟アタロスに伴われてシリアに帰った。
こうして彼はすばやく実権を握ったが、その陰にローマの黙認ないし指図があったと推察される。
彼はアンティオコス4世エピファネスと名乗ったが、エピファネスとは神顕現の意。
彼はオリンポスの神ゼウスの信奉者で、この神を考えてそう名乗った。
だが、エピファネスではなく、エピマネス(狂人)と、からかわれることもあった。
宗教的にギリシアの神の信奉者である彼は、当然ヘレニズム文化の愛好者であった。
ローマに対しても崇拝者であったが、セレウコス王朝の王として愛国心も強かった。
その治世の初め、彼はセレウコス4世のひとりの子供と共同統治者であったようだが、
前170年にその子供は殺されている。このアンティオコス4世エピファネスの支配下にあってユダヤに重大な出来事が起こる。
それがマカバイの乱である。
B ) セレウコス支配下のパレスティナ
ユダヤがセレウコス支配下に入ったとき、エルサレムの大祭司はシモン2世(前220−190)であった。
このシモン2世はシラ書501 以下に出る。支配下においたアンティオコス3世は、
プトレマイオス時代のユダヤとエルサレムの状況を悪化させず、むしろ良くしたようである。
大祭司シモン2世の死後、その子オニア3世(前190−174)が跡を継いだ。セレウコス4世時代も、同じ状況が続いたが、
ヘリオドロスの出来事が起こる。
2マカ31-39によると、大祭司オニアと神殿総務の長シモンとの間に都の市場の管理をめぐって争いが起こり、
シモンはコエレ・シリアとフェニキアの総督アポロニオスに王が取り上げることができる金
(トビア家のヒルカノスの預託金も含む)がエルサレムの神殿にあると告げた。アポロニオスがこれを王に告げると、
王は宰相ヘリオドロスをエルサレムに遣わした。ヘリオドロスがエルサレムに来て、その神殿の金をかすめとろうとした。
大祭司はじめ住民が祈っていると、神の不思議な力が働いてヘリオドロスは打たれ、目的を果たせなかったという。
この話は神殿が不可侵であることを教えるもので、そのまま事実として受け入れることはできないが、
ヘリオドロスがエルサレムに来たということは事実であろう。
そのほか、大祭司と対立関係にあったトビア家がセレウコス王朝に協力的であったこと、
王が大祭司オニアをあまりよく思っていなかったことを窺わせる。
2マカ41-6 はオニアとシモンの争いが続き、オニアが王のもとに赴いたと伝えている。
(写真下はラファエロ作、天使によるヘリオドロスの神殿追放、ヴァティカン博物館、ラファエロの間)
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前175年、アンティオコス4世エピファネスが王位に就いたとき、大祭司はオニアであったが、
(おそらくこのオニアがアンティオキアにいる間に)まもなくその兄弟ヤソン
(ヨシュアのギリシア名)は金の力に物を言わせて王から大祭司に任命してもらった。2マカ47-10によると、
彼は王に大祭司職と引き換えに納付金を銀440タラント増額することを申し出た。
彼はエルサレムにギムナジウムとエフェビア
(γυμνάσιον κα έφηβία : スポーツないしトレーニング・センター)
を設立し、さらにまたエルサレムの住民をアンティオキア市民として登録する権限をもらえるなら、150タラント上積みすると約束した。
こうして彼は大祭司となり、エルサレムのヘレニズム化の先棒をかつぐことになった。
このことは、エルサレムにすでにヘレニストの集団が出来上がっていたことを窺わせる(1マカ111-14参照)。
それはどのような人々であったかというと、エルサレムの知的進歩的な市民、
つまり祭司たち(2マカ414参照)及び有力者たちであったと思われる。
その数はかなり多く、エルサレムのヘレニズム化は急速に進んだものと思われる。
エルサレムでアンティオキアの市民権が得られるということは、エルサレムで貨幣の鋳造ができるということにつながっているなら、
エルサレムの経済的活性化にもつながっている。ヤソンの政策はその商売人たちの望むところでもあったであろう。
このようなヘレニストの集団は、初めは小さな火種にすぎなかったであろうが、勢いを増し、目につきだすと、
伝統的なヤーウェ信仰に対する背信、とくに律法への不忠実という面を現し、
保守的なユダヤ人はそれに警戒心ないしは嫌悪感を抱くようになったとしても不思議ではない。
マカバイ記にはそのような観点からの記述がある(1マカ111-13の「律法に背く者ども」;2マカ413-14参照)。
2マカ423-26によると、
ヤソンは年毎の納付金を納めるため前述の神殿総務の長シモンの兄弟メネラオスを王のもとに遣わしたが、
このメネラオスは銀300タラント多く納付金を上積みして王から大祭司にしてもらった。
こうして大祭司職はツァドク系の祭司家族のヤソンから別の祭司家族のメネラオスのものになった。
前173/2年のことであろう。ヤソンは自分の立場が不利になったのを見て、
アンモン人の地、トランス・ヨルダンに逃げた。このメネラオスの在職中(前173/2−162)に数々の出来事が起こった。
メネラオスは王に約束した銀300タラントの工面に困り、延納することになったので、王から召喚された。
メネラオスはうまくその場を繕ったらしい。メネラオスは自分の留守中のエルサレムには兄弟のリシマコスを大祭司代理に立て、
神殿の宝物をかすめとらせようとしたが、この者は怒った住民によって殺されてしまった(2マカ439-42)。
また住民は、ティルスに来た王に三人の使節を遣わし、メネラオスの悪行を訴えたが、メネラオスは王の役人に画策して王を味方にし、
三人を殺すようにした(2マカ443-48)。また王がアンティオキアを留守にしている間に、
王はアンドロニコスという人物に政務を代行させていたが、メネラオスはこのアンドロニコスを買収し、
その地にいたオニアを殺害させた。帰ってきた王は、それを訴えられて憤慨し、
アンドロニコスを処分した(2マカ430-38)。このような悪行を重ねたメネラオスであったが、
王から処罰は免れている。それは王に金銭の利害関係が関わっていたためかもしれない。
このメネラオスの在職中(前173/2−162)に数々の出来事が起こった。
このようなメネラオスの行動はエルサレム市民の憤慨するところとなり、反抗を呼び起こした。
セレウコス王朝に対して好意的であった市民も態度を変えるようになった。
他方、アンティオコス4世も、アパメアにおけるローマへの誓約に縛られてのことであったが、
ユダヤ人の特に宗教的心情にあまりにも無神経で、反感を招いたようである。
こうして、ユダヤ人にとってプトレマイオス王朝のほうが良いと思われるようにもなったことであろう。
しばらくして、アンティオコス4世が死んだという噂がながれ、
トランス・ヨルダンに逃げていたヤソンはかなりの部下を都に率いてきて、
メネラオスに対して反乱を起こし、多くの血を流した(2マカ55-10)。
F・ヨセフスは、民衆の多数が彼を支持したという(古誌XII、239)。
これは、反セレウコス、親プトレマイオスの側に立つものであった可能性もある。
しかし、このヤソンとメネラオスの争いは、エルサレムにおける二つのヘレニストの集団の抗争で、
多くの者が殺しあったと伝えられるが、実際にはエルサレムとユダヤの住民の大部分は巻き込まれずにいたらしい。
そのためかこの流血事件は、1マカバイ記、ダニエル書には言及されてはいない。
事件は前169年か168年に起こったらしい。おそらくセレウコスの兵によってヤソンは撃退され、
行き所なく転々としたあと、スパルタで死んだ。
C ) アンティオコス4世エピファネスによる直接の圧迫
(1)エルサレムにおける乱暴:前170−169年に、アンティオコス4世はエジプトに攻め入り、
プトレマイオス6世に襲いかかった。この戦いは成功し、メンフィスでプトレマイオス6世に自分の主権を認めさせ、従わせた。
その帰途、王はエルサレムに来て、神殿で略奪行為をほしいままにして、
帰っていった(1マカ120-24;F・ヨセフス、古誌XII,246-247)。
まもなく、プトレマイオス6世が反逆したので、アンティオコス4世は再びエジプトに攻め入った。
この戦いにも勝利をおさめたが、ローマが介入し、その元老院が使節を送って、セレウコスの兵を引かせた。
その帰途にも、ヤソンの反乱のあとその鎮圧のためか、エルサレムに来て、乱暴を働いた
(2マカ511以下;F・ヨセフス、古誌XII、248-250参照)。このときも、多数の血が流された。
(2)アクラの建造:アンティオコス4世は、エルサレムの城壁を破壊し、
ギリシア語でアクラ
( κρα)といわれる大要塞を造った。
これは、エルサレムに駐屯するセレウコス軍の兵営であるばかりか、都の中にあるポリスのようなもの、
ないしはアレキサンドリアのポリテウマのようなものであったらしい。
これはエルサレムにおけるセレウコス王朝の者のみならず、ヘレニストたちの居城であった。
(このアクラについては1マカ129-35;F・ヨセフス、古誌XII,252参照)
このアクラが正確にエルサレムのどこにあったか、考古学では論議されている。
それはエルサレムの西の丘のかつてのヘロデの王宮のところか、ユダヤ人地区に求められたが、
最近では東の丘の神殿の近くではないかとされている。Y・ツァフリィルは神殿境内南東端の北に、
B・マザ−ルは現在のエル・アクサのモスクのあるところではないかと言う。
Tsafrir, Y., The Location of the Seleucid Akra in Jerusalem, RB 82(1975), 501-521
(3)宗教的圧迫:1マカ141-59;2マカ62-11によると、
王は王国全体に対し、諸民族はそれぞれ自分の習慣を捨てて、
ヘレニズム化するよう命じ、イスラエル人にもその固有の宗教を禁じた。
具体的には、種々の献げ物をささげることを止め、安息日や祝祭日を祝うこと、聖所や聖なる人を保つこと、
割礼を行うこと、清さの掟を守ることを止め、逆に異教の礼拝を導入することを言いつけている。
つまり、律法を捨てるよう命令している。その頂点に、西暦で言えば前167年キスレウの月の15日に、
エルサレムの神殿の祭壇にオリンポスの神ゼウスの像を建てている。
これこそ、「憎むべき破壊者」、「荒廃をもたらす憎むべきもの」
(1マカ154;ダニ927、1131、1211)である。
このマカバイ記の記述は、律法への忠実を説こうとして誇張している側面も有するが、その背後に歴史的な事実もある。
その事実は控え目に読み取らねばならないが、伝統的な、
律法に忠実な者に対してユダヤ全域で迫害が行われたと見てよかろう
(迫害については1マカ157−64;2マカ67−742参照)。
アンティオコス4世が行ったこの宗教的圧迫は、彼の一般的なヘレニストとしての性格からというよりも、
実際にはエジプト遠征で遂げられなかった成果をエルサレムで得ようとしたということから来ているかもしれない。
また、マカバイ記ではこの王は「悪の元凶」(1マカ110)と考えられているが、
実際に悪事を働いたのは、メネラオスとその取り巻きたちであろう。その迫害がどれほどの規模であったかも明らかではないが、
迫害が行われたことは事実で、そのなかで多くのユダヤ人が妥協するより死を選んだことも事実であろう。
この頃、黙示文学といわれる文書が著され始めた:ダニエル書、エノク書の一部。
II.マカバイ戦争
最近の主な参考文献
ヘレニズム時代一般の参考文献およびマカバイ記関連の文献のほかに、
Bringmann, Klaus, Helleistische Reform und Religionsverfolgung in Judëa,
Eine Untersuchung zur Judisch-hellenisctischen Geschichte(175-163 v. Chr.), 1983, Göttingen
Fischer, Thomas, Seleukiden und Makkabeer, 1980, Bochum
エルサレムには、アンティオコス4世エピファネスに後押しされた大祭司メネラオス、
それに祭司階級、貴族、大地主がいて、政治の実権を握り、ヘレニズムの生活様式と思想に対して寛容であるばかりか、それを歓迎した。
他方、一般の市民、ユダヤの住民、それに下級祭司たちは伝統的、保守的で、先祖伝来の信仰を忠実に守ろうとし、
ヘレニズム化には警戒心ないし憎悪を抱いていた。この二つのグループが搾取するものと搾取される者とに別れ、
宗教的にも溝を深め、一方が耐えられなくなったとき、乱が発生した。
A ) 主役
マカバイの兄弟たち:戦いの火蓋を切ったのは、モデイン出身で、ヨヤリブの子孫、(下級)祭司マタティアスであった。
彼には5人の子がいた:ヨハネ、シモン、ユダ、エレアザル、ヨナタン(1マカ21-5)。
その三男のユダに、マカバイというあだ名が付けられる。このあだ名には、
語根nqb 「突き刺す」、「印す」、「指名する」から由来し、「神によって指名された者」を意味するという説明と、
maqqebet,「金槌」から由来し、彼の武器ないしは顔かたちを示しているという説明がある。
このあだ名は、あとでユダのみならず、その兄弟たちに、さらに2マカ7の7人の兄弟とその母にも言われるようになる。
書名としては、アレキサンドリアのクレメンス(西暦3世紀の前半)の著作に見られる。
次男シモンからヨハネ・ヒルカノス1世、その子アリストブロスなどと王位に就くものが出る。
この家系をハスモネア王家と言う。この名は、F・ヨセフスの『古誌』XII,6に出るマタティアスの先祖から由来する。
ハシダイ: σιδαίοs(1マカ242,713,2マカ146)、
ヘブライ語で sidîm
と言われる人々もマカバイたちの味方になって、一緒に戦っている。
これは、モーセの律法を忠実に守って生きている一つのグループで、
マカバイ時代よりはるか以前からあった者である。反乱が終わると、彼らはマカバイたちから離れていった。
このグループは、あとでファリサイ派、エッセネ派に分かれていった。また、彼らは初期の黙示系の派とも関係がある。
B ) 経過
a) 発端
モデインに王の役人が来て、住民に異教様式でいけにえを捧げることを強要した。
マタティアスは、役人とそれに従おうとした住民を殺害し、
息子らと同志らとともに荒れ野に逃れた(1マカ215-29)。
これが王の側からの報復を呼び、安息日に虐殺が行われた(1マカ231-38)。
その犠牲者の多くがハシダイであったことは確かであろう。
こうして、彼らはマタティアスを支持するようになったのであろう。
こうして、戦いは始まった(1マカ239-48)が、
マタティアスはまもなく前166年の始めに死んだ(1マカ249-69)。
b) ユダ・マカバイ(前166−161/0)
父に代わって戦闘を指揮したのは、三男のユダであった。その戦いは、始め小さいゲリラ戦のようなものであったが、
徐々に独立戦争の様相を呈してきた。幸い、セレウコス軍も小さく、メネラオスもこの反乱をあまり重要視していなかったようである。
ユダは果敢に戦い、戦闘で勝利を収めていった。まず、彼は戦いを挑んできたサマリアの総督アポロニオスとその軍を撃ち破った
(1マカ310-12)。その戦場はわからないが、ユダとサマリアの国境近くでのことであったろう。
次に、将軍セロンが、反乱軍を討伐するため出陣してきたが、ユダはこれに不意打ちをかけ、退けてしまった(1マカ313−26)。
その戦いは、ベト・ホロンでのことであった。
丁度その頃、アンティオコス4世は都アンティオキアを部下のリシアスにゆだね、
パルテアを打とうとしてペルシア地方に遠征に出かけた。 このリシアスが、
ユダヤにおける反乱を鎮めるためプトレマイオス、ニカノル、ゴルギアスという軍人を派遣するが、
ユダはその撃破に成功した(1マカ338-425)。それはアマウス(エンマウス)のことであった。
次に、リシアス自身兵を率いて討伐にやってきた。
しかし、ユダはこれもベト・ツールで撃ち破ったと言われる(1マカ426-35,古誌XII, 314)。
だが実際にはユダとリシアスは話合いで事の決着を着けたらしい(その示唆は2マカ111-21にある)。
その頃、セレウコス王朝は内部に大きな問題をかかえていた。アンティオコス4世は、前164年に死んだ。
いずれにせよ、こうしてユダはセレウコス王朝から宗教的に自由を勝ち得た(2マカ1122-26.27-33)。
前164年キスレウの月の25日には、エルサレムの神殿を清め、奉献式を執り行った
(1マカ436-58;2マカ110-218:エジプトのユダヤ人への書簡参照)。
これが、ハヌカの祭りの起源である。これは伝統的な祭りではなく、全く新しく始められた祭りである。
前163年に、ユダはエルサレムのヘレニストの拠点アクラを包囲した。
しかし、アクラの人々は包囲網を抜け出した者を通じてセレウコスの宮廷に助けを求めたため、
リシアスの軍隊が遠征してきて、ユダは包囲を解かざるを得なかった(1マカ618-32)。
そのあとユダの部隊は、ベト・ザカリアでリシアスの軍隊と衝突し、
このとき兄弟のエレアザルが戦死した(1マカ633-47)。
ユダはエルサレムに逃げ込み、包囲された(1マカ648-54)。
ところが、アンティオコス4世エピファネスは死ぬ前に、
後継者である自分の幼い子アンティオコス5世エウパトルのためにリシアスではなくフィリポスを指名したため、
このフィリポスがアンティオキアに帰ってきて政権を取ろうとした。そこで、リシアスはユダと和解し、
急いでアンティオキアに帰り、フィリポスを退けた(1マカ655-63)。
リシアスはアンティオキアに兵を引き上げるとき、エルサレムの大祭司メネラオスも連れていって、
王にこの大祭司がユダヤにおける問題の元凶であると訴え、メネラオスは処刑された(古誌XII, 383-385, また2マカ133-8参照)。
ところが、ローマに人質にとされていたデメトリオス(前述のセレウコス4世の子)が帰ってきて、
政権奪取に成功し、デメトリオス1世ソテルと名乗った。
こうして、アンティオコス5世とリシアスは退けられてしまった(1マカ71-4参照)。
デメトリオス1世がメネラオスに代わる大祭司に任命したのは、アルキモスであった(1マカ75-11参照)。
これは宗教的にも、政治的にもふさわしい人物ではなかったが、ツァドクの家系に属し、正統な大祭司となる条件を満たす者であった。
こういうわけで正統な大祭司が得られ、反乱の目的は、宗教的な意味では遂げられたと言えよう。
ハシダイは、このように宗教的な自由を獲得したことで満足し、アルキモスを歓迎したが、ユダは拒否して、
政治的な自由までも求めたようである。いずれにせよ、ここにきて反乱側に亀裂が生じた。
ハシダイがアルキモスによって60人も殺されるということも起こったが、
ユダとともになることはもうなかった(1マカ79-25;2マカ145-10)。
ユダは荒れ野に逃れて、戦う機会を準備しながら待っていたらしい。
大祭司アルキモスは、将軍バキデスとともにアンティオキアからエルサレムに戻ってきた。
そこで、60人のハシダイ虐殺事件を起した。
王がユダヤの総督に任命したのは、ニカノルという人物であった。
1マカ726-32によると、ニカノルはユダに和解の提言をし、ユダはこれを見せかけとして断わるが、
2マカ1415-25によるとそれを受け入れ、平和に暮らしている。
ところが、アルキモスがニカノルとユダの和解を王に訴えたので、王はニカノルにユダの逮捕を命じた。
ニカノルも王に逆らうことができず、態度を変え、それに気づいたユダは再び身を潜めた。
2マカはラジスという人物の出来事をこの頃のこととして伝えている(2マカ1437-46)。
ニカノルとユダの軍事的衝突はベト・ホロンの近くのアダサで起こった(1マカ733-50)。
この戦いでニカノルは戦死し、その軍隊は四散して逃げる途中ユダの軍によって次々に撃ち殺された。
ユダのこの勝利も長続きしなかった。デメトリオス王は将軍バキデスをユダヤに派遣し、秩序を回復しようとした。
バキデスは、エルサレムの北にあるベレトでユダの軍隊と激戦に入り、この戦いでユダは戦死した。
兄弟のヨナタンとシモンがユダの遺体を故郷のモデインに運び、そこに葬った(1マカ91-22)。
c)ヨナタン(前161/0−143/2)
ユダ・マカバイの死は、セレウコス軍とその支持派がエルサレムで勢力を取り戻すきっかけとなったようである(1マカ923-27)。
それに抵抗する人々は、ユダの後継者としてその兄弟ヨナタンを選んだ(1マカ928-31)。
1マカは、その後ヨナタンがテコアの荒れ野に退いたこと、ナバタイ人に殺されたヨハネの復讐をしたこと、
互いに重大な結果を招くことなくバキデスと衝突したこと、
バキデスはユダヤに近づく要所を固めたことを記すにとどめている(1マカ932-53)。
さらに大祭司アルキモスが死んだこと、バキデスがユダヤを去ったことを伝えている(1マカ954-57)。
その後も、部分的な情報しかないが、ユダヤのヘレニストたちはバキデスに援軍を求め、
バキデスもそれに応えて出陣してくるが、ヨナタンの攻撃に苦慮し、結局ヨナタンと和平の締結を結んで引き上げ、
ヨナタンはミクマスに居を定めて民を治めている。このようなヨナタンのユダヤ支配は可能であったと思われる。
ユダヤでは、アルキモスの後、誰が大祭司になったかわからない。F・ヨセフスは、空位のままだったという。
ヘレニストは勢力を弱め、セレウコス王朝では内部に問題が山積してユダヤに干渉するゆとりもなかったのではないかと思われる。
この間に、ヨナタンは体制を整え、勢力を増強し、セレウコス王朝と対等にわたりあえるようになった。
前152年、デメトリオス1世と対立していたペルガモンの王アタロスは、
デメトリオス1世に対してアンティオコスの子と名乗るアレキサンドロス
(1マカ101ではアンレキサンドロス・エピファネス、また彼はアレキサンドロス・バラスとも言われる)を王として支持した。
この新しい王は、ローマの黙認を得て、プトレマイスに上陸した。
この王位をめぐる争いの中で、デメトリオス1世はヨナタンに有利な提案をこのヨナタンにもちかけてきた。
つまり、軍を動員し、武器を製造し、エルサレムに住むことが出来るようにした(1マカ101-14)。
ヨナタンはエルサレムに居を移し、この町の再建を始めた。
他方、ヨナタンはアレキサンドロスからの友好の呼びかけにも応じ、
このアレキサンドロスから大祭司にしてもらった(1マカ1015-21;古誌XIII, 45参照)。
大祭司の家系に属さないヨナタンが大祭司になることは、ユダヤ人によく思われなかったことは当然である。
アレキサンドロスがヨナタンに近づいたことを耳にしたデメトリオス1世は、
さらにユダヤ人に対して納税の義務を解き、
さらに神殿の維持と町の再建のための経費を支援することを言い渡した(1マカ1022-45)。
まもなく、デメトリオスは死に(1マカ1056-50)、アレキサンドロス・バラスが唯一の王となったが、
彼はエジプトの王プトレマイオス6世の娘クレオパトラと結婚して、
その父の王と同盟することになった(1マカ1051-58)。
ヨナタンはプトレマイスにおけるその婚宴の席に招かれ、賞賛の的とされた(1マカ1059-66)。
前147年、デメトリオスの子、デメトリオス2世が王位に着こうとした。
このデメトリオス2世とアレキサンドロス・バラスの抗争を利用して、
ヨナタンは、ヤッファとアゾトを支配下においている(1マカ1070−81)。
同様に、エジプトのプトレマイオス6世はコエレ・シリアを支配下に置こうとし、
アレキサンドロス・バラスに嫁がせていた娘クレオパトラを取り返し、デメトリオス2世に与えようとした。
こうして、アレキサンドロス・バラスとプトレマイオス6世は戦いを交えることになるが、
結局両者とも死ぬことになる(1マカ1057−89、111-19)。
デメトリオス2世が王位に着き、ユダヤ人の自由を確認するとともに(1マカ1120-37)、
ヨナタンもデメトリオス2世の援助にまわっている(1マカ1138-53)。
しかし、トリフォンというものが、アレキサンドロス・バラスの子を王として立て、デメトリオスは逃亡を余儀なくされた。
ヨナタンはこの新しい王と話をつけ、ユダヤ人の自由の保証を得、自分には大祭司職を確保し、
兄弟シモンのためにはティルスからエジプトまでの海岸地方の総司令官の任命を得た(1マカ1154-59)。
ヨナタンはデメトリオスとの戦いを続けて、領土を拡張した(1マカ1160-74;1224-34)。
しかし、ヨナタンはトリフォンにだまされて捕らえられ、殺された(1マカ1239-53;1314-24)。
このように、ヨナタンはユダヤで政治的実権を握るのに成功し、
ユダヤの国とエルサレムの町の復興に努めたが、政治的に野心を抱く反面、宗教的には無関心であった。
他方、彼は前任者と異なり、ヘレニズム化には寛容であった。
d)シモン(前143/2−135/4)
ヨナタンに代わって民を率いたのは、5人兄弟の唯一の生き残りシモンであった。
彼は、ヨナタンがトリフォンに捕らえられているときに、そのヨナタンの釈放をめぐってトリフォンの裏心ある提案に応じ、
交渉に臨むが、恐れていたとうり失敗した。そのトリフォンは、ユダヤに攻め上ってくるが、
それには抵抗し、撃退することに成功した。ヨナタンはそのとき殺された(1マカ131-24)。
シモンは、セレウコス王朝が王位継承の抗争で末期的な状況に陥ったこともあって、実質的に独立をかち取った。
セレウコス王朝内では、トリフォンが王を名乗り、他方キリキア、メソポタミア、
バビロニアを支配下に置くデメトリオス2世と対立していたが、シモンはこのデメトリオス側についた。
シモンはこのデメトリオスからあらゆる課税の免除をあらためて承認され、
実質的に完全な自主独立をかちえた(1マカ1336-40)。このときから(前143/2年)、
「偉大なる大祭司、ユダヤ人の総指令官、指導者であるシモンの第一年」と数えるようになったという(1マカ1341-42)。
このユダヤの自主独立は、ますます混迷を深めるセレウコス王朝の弱体化とあいまって堅固なものとなっていった。
こうして、捕囚後はじめてユダヤは独立国家となることに成功したハスモネア時代を迎えることになる。
翌年、シモンはアクラからセレウコスの駐留軍を追い払い、
その近くにある神殿の丘を強化し、自らそこに住むことになった(1マカ1349-53)。
国内的には、祭司、民の指導者、長老たちからなる大集会が開かれ(1マカ1428参照)、
ここでシモンは「忠実な預言者が出現するまでは」(同41)という条件のもとに、民の指導者、大祭司として認められた。
セレウコス王朝では、デメトリオスが北方で主権を確立しようとしたが、
パルテア人の王アルサケスに監禁されることになり(1マカ141-3)、
その兄弟アンティオコス7世がかけつけて王権を主張し、トリフォンを退けてしまった(前137年)。
この王はシモンにすでに認められている権利を確認する(1マカ151-9)が、
勢力を盛り返したあとでこの意志を翻している。彼はシモンにヤッファとゲゼル、
エルサレムのアクラの返還、それにユダヤ以外からの税収入の引渡しを要求してきた。
シモンは要求された金額の一部を払う用意をしたが、アンティオコス7世はそれに満足せず、
将軍ケンパイオスを先頭に軍を送ってきた(1マカ1525-41)。
シモンは息子のユダとヨハネにこれを迎え撃たせ、撃退させた(1マカ161-10)。
シモンの最後:シモンの娘婿プトレマイオスはエリコ地方の長官になっていたが、さらに大きい野心を抱いていた。
こうして、エリコ近くのドクで大宴会を開き、シモンとその息子たちを招いて、この機会に彼らを殺そうとした。
それとは知らずに来たシモンは、息子のマタティアとユダとともにその策略にひっかかり、
殺されてしまった(1マカ1611-17)。前135/134年のことである。
他方、シモンの子ヨハネはドクに赴かず、ゲゼルに留まっていた。
彼は、プトレマイオスから刺客が送られてくることを前もって知らされていたので、難を免れた(1マカ1619-22)。
彼はエルサレムに急行し、都を押え、父の跡を継いだ。これがヨハネ・ヒルカノスである。
C )結果
このようにシモンの子ヨハネ・ヒルカノスの時代に入っていくが、ここでマカバイ記は終わる。
セレウコス王朝は混迷を深めるばかりで、やがてパレスティナへの干渉もできなくなり、
ユダヤは政治的に自主独立の時代を迎え、マカバイの戦いは成功したと言える。
エルサレムの神殿と大祭司を中心とするユダヤ社会は、むしろ発展の機会に恵まれることとなる。
しかし、大祭司を兼ねるハスモネア家の王とこれを取り巻く貴族階級の政治は、
すべてのユダヤ人に受け入れられたわけではなかった。それにユダヤのヘレニズム化は押しとめるすべもなく、
上流階級をはじめそれに染まっていった。つまり、このヘレニズム化が伝統的な信仰にもたらした危機は深まるばかりであった。
こういう事態の中で、ユダヤ社会はその内部において統一性を欠き、分裂していく。
まず、エルサレムとサマリアの決裂は決定的なものとなり、エズラの改革が目指した律法に基くユダヤ人の統一は挫折した。
それにこの新しい状況のもとで伝統的な信仰をいかに受けとめるか、色々と異なる態度を取る流派が生まれた。
ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派、黙示系の流派など、イエスとその後の時代にそれぞれ特徴ある態度を示す集団が現れてきた。
死海文書を残した集団の発生も、この時代に求める説が有力である。
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