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本稿は英知大学人文科学研究室紀要『人間文化』、第3巻、2000年3月、57−71頁に掲載されたもの。 | ||
序 1998年3月16日、教皇庁のユダヤ教徒との宗教的関係のための委員会は、 教皇ヨハネ・パウロ2世の承認のもと、その委員長への謝辞を添えて、 「わたしたちは記憶にとどめます −ショア−を反省してー 」 (We Remenber : A Reflection on the SHOAH )と題する文書を発表した。 I.ショア−文書の内容と意義 この文書は、その題名が示すとおり、ショアーを主題としている。 ショア−は、日本では一般にホロコースト(語源はラテン語で、焼き尽くす捧げ物の意)と言われ、 その実態は『アンネの日記』やノーベル賞作家エリ・ヴィーゼルの作品、 あるいはV・E・フランクル著『夜と霧』などをとおして幾分か知られている。 本文書は紀元2000年を聖年として迎える準備として悔い改めと和解を呼びかけた教皇ヨハネ・パウロ2世に答え、 この文書は、古くからあるそのようなユダヤ人に対する蔑視、憎悪、 排除の風潮を反ユダヤ主義(Anti-Judaism)と呼び、この風潮が広く、根付いていたからこそ、 ナチス政権下に勃発したショア−に抵抗せず、その惨事を引き起こすことにつながったと考える。 他方、ショアーを直接実行することとなった民族主義イデオロギーを反セム主義(Anti-semitism)と呼び、 反ユダヤ主義と一線を画する。このような用語の用法は、これまで一般に用いられてきたものとは異なる。 これまで古くからあるユダヤ人に対する差別意識や憎悪の感情も反セム主義と言われてきた。 本文書は、反ユダヤ主義と反セム主義という二つの用語を新しく区別することにより、 反セム主義がキリスト教とは無関係のところにルーツをもつことを明らかにした。 これは無神論という現代の新しい異教をルーツとして芽生えてきたもので、 これは必然的にキリスト教に対しても牙をむくものであった。 実際に、「国家社会主義」とか、「第三帝国」とか言われる、 A・ヒットラーのナチス政権は、すべてキリスト教徒をも敵視するものであった。 こうしてこの反セム主義は、つまるところ民族とか国家を神格化することになった。 ショア−は、少数民族や社会集団を「異質なもの」と見なし、蔑視、差別、 排除の論理があるところではどこでも、その底流に民族とか国家とか、 人間の組織を神格化する偶像崇拝があることを垣間見せる出来事だったという。 この意味でショア−の問題は、現在も密かにあり続けており、 その惨劇は警告として記憶にとどめる必要がある。 なお、1963年、劇作家R.ホッフートの作品『代理者』(R.Hochhuth,Der Stellvertreter)の発表以来、 ショアーに対するピオ12世の「沈黙」が非難の的になってきた。 教皇庁は第2次世界大戦中の文書を公開して、その歴史的事実の検証のために提供する一方、 ショアー文書では1963年以前にユダヤ社会の主要人物から同教皇に向けられた賛辞と謝辞を引用するにとどめ、 控えめにではあるが同教皇を弁護していることを付記しておく。 II.第2ヴァティカン公会議のユダヤ教条項 カトリック教会が教会としてユダヤ人との関係をいかに見るべきかを再検討し、 全信徒の意識改革に乗り出したのは、第2ヴァティカン公会議(1962−1965年)においてであった。 それも同公会議の召集したヨハネ23世、同公会議を締めくくったパウロ6世、 および両教皇に協力してユダヤ教徒との関係の条項 (以下ユダヤ教条項と呼ぶ)を作成したA・ベア枢機卿の個人的努力に負うところが大きい。 また、公会議の審議が進むと同時に教会憲章の草案の検討の中で、 ユダヤ教など諸宗教との関係をいかに理解すべきか、 神の救いの計画の中で諸宗教は神学的にいかに位置づけられるのかが深められ、 他方「罪人の教会」としての教会の自覚も広がりを見せた。 また『信教の自由に関する宣言』の検討もなされ、ユダヤ教条項承認の外堀が埋められた。 それに1963年のヨハネ23世の没後新しく選出された教皇パウロ6世は聖地を巡礼し、 その途上イスラエルとアラブ諸国の政治的、宗教的指導者と対話を重ね、 この人的交流の促進が相互の疑惑を解き、信頼を深めた。 それに諸宗教との対話事務局が設置され、制度的にも、 諸宗教との対話促進が強化されることになった。 こうしてユダヤ教条項は紆余曲折を経て第4総会において、 1965年10月15日に可決、承認された。 これが『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』(以下諸宗教宣言と略すか、 その冒頭の言葉を取って、『ノストラ・エターテ』(Nostra Aetate)と呼ぶ)の第4項のユダヤ教条項である。 その成立に至る過程で、ユダヤ教など諸宗教の理解のみならず、キリスト教の自己理解も深められ、 教会全体の意識改革がもたらされた。これがその後のカトリック教会における諸宗教との対話路線の基礎となり、第一歩となった。 このユダヤ教条項の豊富な内容を理解するためには詳しい解説が必要である。 ここではただその主要な事項を列挙すれば、キリスト教が自己を探れば探るほど、 ユダヤ教にその信仰と倫理の本質を負っていること、キリスト教はそこから分離したが、 ユダヤ教徒が現在も神にとって最も貴重な存在であること、 そのユダヤ教とは今後対話を促進する必要があり、 これまで培ってきたユダヤ教に対する差別と憎悪を遺憾とすること、 反ユダヤ主義には聖書的根拠がまったくないことである。ここにその私訳を掲げておく。 『この聖なる教会会議は、教会の秘義を吟味しながら、 新約の民とアブラハムの子孫とを霊的に結ぶ絆に心を留める。 事実、キリストの教会は、神の救いの秘義にしたがって、 自分の信仰と選びがすでに父祖たちとモーセと預言者たちの中に起源をもつことを認める。 教会はすべてのキリスト教徒が信仰によってアブラハムの子であり、 同じ父祖アブラハムが受けた召し出しの中に含まれていること、 奴隷であった地からの選ばれた民の脱出の中に教会の救いが神秘的に予め示されていることを公言する。 それゆえ教会は、神が名状し難い慈悲によって古い契約にお入りになったこの民をとおして、 旧約の啓示を受けたこと、異邦人である野生のオリーブの枝がよいオリーブの木につぎ木されて、 その根に養われていることを忘れることができない。教会は、わたしたちの平和であるキリストが、 十字架をとおしてユダヤ人と異邦人を和解させ、両者を自分のうちにひとつにしてくださったことを信じるからである。 また教会は、使徒パウロが自分の同族について述べたことばを常に念頭におく。 「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです」(ロマ9:4−5)、 おとめマリアの子であるキリストも。教会はその土台であり支柱である使徒たちも、 世界にキリストの福音を告げ知らせた多くの最初の弟子たちもユダヤ民族の出身であることを覚えている。 聖書が証言するとおり、エルサレムは訪れの時を知らず、またユダヤ人は大部分が福音を受け入れず、 しかも福音の宣布に立ち向かった者も少なからずいた。にもかかわらず、 使徒パウロによれば、神にとってユダヤ人は、その父祖のゆえに今も最も愛すべきものであり、 その賜物と召し出しを悔やんではおられない。預言者たちと使徒パウロとともに教会は、 すべての民が声を合わせて主に祈り「肩を並べて主に仕える」(ゼファ3:9)日、 この神だけが知っている日が来ることを待っている。 キリスト教徒とユダヤ教徒が共有する霊的遺産はこれほど大きいものであるゆえ、 この聖なる教会会議は、特に聖書と神学の研究や兄弟的対話によって相互に理解しあい、 尊重しあうようになることを喜び、勧めたい。 キリストの死を迫ったのがユダヤ人権力者とその輩であったが、 キリストの受難にあたってなされたことの責任を、無差別に当時のすべてのユダヤ人にも、 また今日のユダヤ人にも負わせることはできない。 教会は神の新しい民であるとはいえ、ユダヤ人が神から見捨てられた者であるとか、呪われた者であるとか、 しかもこれがあたかも聖書から結論されるかのように紹介されることはあってはならない。 それゆえ、要理教育や神のことばの宣教にあって、 福音の真理とキリストの精神に合わないことは何も教えないように皆が心がけなければならない。 さらに、だれに対するものでも、すべての迫害を非難する教会は、 ユダヤ教徒との共通の遺産を心に留め、政治的な理由からではなく、 福音の宗教的愛にかりたてられ、ユダヤ教徒に対する憎しみ、 迫害、反ユダヤ主義の運動があれば、それがいつ、だれによってなされるものでも、これを嘆き悲しむ。 他方、教会が常に主張してきたし、今も主張するとおり、 キリストは限りない愛をもって、すべての人の罪のために、苦難と死にすすんで服し、 すべての人が救いを得るようにされた。したがって、 宣教する教会にはキリストの十字架を神の普遍的な愛のしるしとして、 またすべての恩恵の泉として告げ知らせる義務がある。』 III.第2ヴァティカン公会議以後の対話促進 公会議以後、決議されたユダヤ教条項を実践するため定期的にユダヤ教徒との会合が行われたが、 その作業を強化するため教皇庁には1974年10月22日に「ユダヤ教との宗教的関係のための委員会」が創設された。 その委員会より、ユダヤ教条項実践のための指導要綱として、 1975年1月1日に『公会議の宣言ノストラ・エターテ第4項を応用するための指針と提案』、 ユダヤ教との関係は、ヨハネ・パウロ2世の登場と共にいっそう促進することになる。 ポーランド出身の同教皇は、若いときナチス支配の脅威を身をもって体験し、 個人的に隣人や友人の中にユダヤ人が多く、その苦しみをつぶさに見てきた。 「この墓碑は、その子らと娘らが全滅のもくろみにあった民族の記憶を呼びさまします。 この墓碑は、タルソのパウロも言っているようにわたしたちの信仰の父であるアブラハムに起源をもっています。 彼らは、"なんじ殺すなかれ"という掟を神から受けた、まさにその民族でありますが、 その"殺す"ということが何を意味するか、自ら特別な規模で体験した民族です。 無関心にこの墓碑を通りすぎることは、だれにもゆるされません」。 さらに『ノストラ・エターテ』に言及し、特にキリスト教は、 自らの秘義を追い求めていくと、ユダヤ教との絆に気づくこと、 キリスト教にとってユダヤ教は、"外なるもの"ではなく"内なるもの"であり、 ユダヤ教は優先すべき兄弟であり、「ある意味で兄とさえ言える」ということ。 イエスの受難のときに起こったことのいかなる責任も民族としてのユダヤ人に負わせることはできないということ、 ユダヤ人差別と迫害を神学的に正当化する根拠はないこと、そこから帰結されることだが、 ユダヤ人が神から排斥された者、呪われた者とかいうことは新約聖書からも旧約聖書からも結論されないこと、 ユダヤ人はむしろ神にとってきわめて貴いものであり(ロマ11・28)、 その使命は消されるものではないと明言した。 IV.イスラエルとヴァティカン外交関係正常化 ここで1993年のイスラエルとヴァティカン外交関係正常化を特筆しなければならない。 1947年に国際連合は、パレスティナにユダヤ人国家を創ることを承認したが、 これと同時にアラブ諸国の軍隊が攻撃を激化し、イスラエル独立戦争が始まった。 その間に、1948年5月14日、イスラエルは、国家創設を宣言し、 この地における英国の委任統治が終了した。独立戦争は、1949年2月の休戦協定調印まで続いた。 このとき、停戦ラインが引かれ、エルサレムも分割された。 その後、1956年10月29日−11月5日の第1次スエズ戦争を経て、 1967年6月5−11日に第2次スエズ戦争、いわゆる6日間戦争が起こり、 イスラエル軍はエルサレム全市、ヨルダン川西岸およびシナイ半島を制圧した。 その後1973年秋、第3次スエズ戦争、いわゆるヨム・キップール戦争、 続いてエジプトへのシナイ半島返還、イスラエルとエジプトとの外交関係正常化、 ヨルダン王国によるヨルダン川西岸の主権放棄、 イスラエルとヨルダンの外交関係正常化、和平条約、 1993年9月のイスラエルとパレスティナの合意があって現在に至っている。 この合意の実現はイスラエル首相ラビン氏殺害、ネタニヤフ氏の首相就任があって、 一時失速したが、現在再び始動し始めた。 この間、ヴァティカンは、イスラエル国家に対して敵対的立場を取ったわけではないが、 公式に承認せず、外交関係を有しないままきた。事の成り行きを静観してきたといえよう。 他方、イスラエル国民、またカトリック教徒の中にも、 ヴァティカンがどうしてイスラエル国家を承認しないのかとの疑問があった。 このあいまいさは誤解を招く危険もあり、イスラエルとヴァティカン関係正常化は懸案であった。 1992年7月29日にイスラエルとヴァティカン関係正常化に向けての合同委員会が創設され、 1993年12月30日にイスラエルとヴァテイカンの聖座との関係を定めた「幾つかの基本原則の合意」に達し、 その文書が調印された。 「幾つかの基本原則の合意」の第3条第3項にあるイスラエルにおける教会諸団体の法人格について、 1997年11月10日にさらなる合意に達した。 結び 1998年のショアー文書は、以上のような歴史的背景のもとに発表された。 それは第2ヴァティカン公会議のユダヤ教条項が投げかけた波紋として、 またその実りとして考えなければならない。 このユダヤ教条項は純粋に宗教的次元に立って作成されたものであるが、 社会的に、また政治的にも影響し、よい結果を産むこととなった。 さらに現在のヨーロッパ諸国は北欧、東欧も含めて統合への道を歩むと共に、 そこにはアフリカ系、アラブ系、アジア系の諸民族が移住してきて、 かつてのような白人のキリスト教国とは言えなくなった。 そこでは異民族のみならず、異なる宗教的信念の隣人と共存共生しなければならなくなった。 この新しい状況のもとでキリスト教徒は諸宗教の隣人といかに生活していくか、 問題になることが多い。その基本的な指針が第2ヴァティカン公会議で示されたのだった。 その先見の明にあらためて驚きを覚える。その指針を、 ここでユダヤ教との関係に限っていかに実行するよう努め、 その実りを結ばせつつあるのかを、確認できた。 このように異民族、異なる宗教の隣人と共存共生していかなければならないのは、 今後の日本についても言える。キリスト教とユダヤ教の関係の歴史、 その問題およびその問題解決への取り組みは、われわれ日本人にも確かに参考となろう。 民族と宗教の違いを超えて、まずすべての人に共通する人間の生命と尊厳の根拠を、 どこに求めたらよいのだろうか、真剣に考えておかなければならない。 その最終の根拠を納得し、説得力をもって説くことができなければ、 また民族や国家などを神格化してショアーの惨劇へと、 いつか来た道を再び歩むことになるかもしれない。ショアー文書の中核であるこの呼びかけは、 われわれ日本人にとっても聞き捨てにしてはならないものである。 キリスト教とユダヤ教の対話の歩みの実りとして、 大聖年2000年にはまた大きな一歩となる恵みが与えられた。 その四旬節の第1主日、3月12日に、教皇ヨハネ・パウロ2世は教会として犯した過去の罪を認め、 ゆるしを願うミサを行った。その中の共同祈願でユダヤ教に対して犯した罪も告白した。 その直後、3月21日−26日に同教皇はイスラエルに巡礼し、 エルサレムの嘆きの壁などユダヤ教の聖所を訪れ、ユダヤ教の代表者たちとの出会いも行われた。 そのときの演説も重要な文書として忘れてはならない。 | ||
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