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キリスト教とユダヤ教の対話の歩み

−第2ヴァティカン公会議から20世紀の終幕まで−
和田 幹男  


本稿は英知大学人文科学研究室紀要『人間文化』、第3巻、2000年3月、57−71頁に掲載されたもの。





 1998年3月16日、教皇庁のユダヤ教徒との宗教的関係のための委員会は、 教皇ヨハネ・パウロ2世の承認のもと、その委員長への謝辞を添えて、 「わたしたちは記憶にとどめます −ショア−を反省してー 」 (We Remenber : A Reflection on the SHOAH )と題する文書を発表した。 原文は、Commission for Religous Relations with the Jews, WE REMEMBER :A REFLECTION ON THE SHOAH, Vatican City, 1998 以下これをショア−文書という。これは短い文書であるが、 人類の犯罪史上最悪の悲劇であったショアーに対しカトリック教会が現在いかなる態度を取ろうとしているか、 またユダヤ教とキリスト教の対話がこの世紀の終わりにどこまで進んできているかを知るため、 きわめて貴重な資料である。そればかりか、多かれ少なかれショア−に何らかの関わりのあるわれわれも、 あらためてその事実と事実がもつメッセ−ジを心に留め、反省し、 少数民族や異民族との共存がますます深まる21世紀に生かさなければならないが、 そのわれわれのためにも貴重な教訓を含んでいて、この文書はきわめて重要である。 その訳文は巻末に資料として掲載し、ここではその内容の主なところを紹介してから、 第2ヴァティカン公会議から始まる両宗教の対話の歩みを概観することとする。


I.ショア−文書の内容と意義

 この文書は、その題名が示すとおり、ショアーを主題としている。 ショア−は、日本では一般にホロコースト(語源はラテン語で、焼き尽くす捧げ物の意)と言われ、 その実態は『アンネの日記』やノーベル賞作家エリ・ヴィーゼルの作品、 あるいはV・E・フランクル著『夜と霧』などをとおして幾分か知られている。 『アンネの日記』は、オランダ国立戦時資料研究所編、深町真理子訳、文芸社、1986年、エリ・ヴィーゼルの作品としては、たとえば『夜・夜明け・昼』、村上光彦訳、みすず書房、1984年、V・E・フランクル著『夜と霧』は、霜山徳爾訳、みすず書房参照。ホロコーストについては多数の文献があるが、特にEncyclopedia Judaica 8, col.828-916 のHolocaust の項、またマイケル・R・マラス著、長田浩彰訳『ホロコースト』、時事通信社;鵜飼哲、高橋哲哉編『「ショア」の衝撃』、未来社など参照。 これはユダヤ民族絶滅を目論んで実行された大量虐殺のことで、 第2次世界大戦中1933年から1945年にかけてドイツノのナチス政権下で行われた人類犯罪史上最悪の惨劇である。 そのときユダヤ人が、ただユダヤ人というだけの理由で強制的に集合させられ、 辺鄙な森の奧の収容所に移送され、劣悪な条件のもとで労働を課せられたあげくの果てに、 ガス室など残忍な手段で殺害された。犠牲者の数は四百万とも五百万ともいわれ、 いかなる言葉もこの悲劇のほんの一面でも表現しうるものではない。 その無数の遺骸と遺品の山は、人間の命と尊厳が動物と物品以下のそこまで落とし込められるものかと、 これを見る者を震い上がらせた。しかも、これが理性と良心をもつ人間によって計画的に、 組織的に行われたとなると、人間の心に巣くう悪魔性がこれほど露わになったためしは、 かつてなかった。ショア−(ヘブライ語で絶滅、壊滅の意)という用語は、 日本でもクロード・ランズマン監督製作の長編記録映画ショアーによって広く用いられるようになった。 ビデオテープとして、クロード・ランズマン監督製作 SHOAH、全4巻、シグロ/エースピクチャーズ/日本ヘラルド映画、発売元:日本ヘラルド映画がある。また優秀な記録映画として、S・スピルバーグ監督の1993年の作品『シンドラーのリスト』もある。

 本文書は紀元2000年を聖年として迎える準備として悔い改めと和解を呼びかけた教皇ヨハネ・パウロ2世に答え、 邦訳は、教皇ヨハネ・パウロ2世使徒的書簡『紀元2000年の到来』、カトリック中央協議会、1995年がある。 今世紀の最大の汚点であるショア−を凝視し、各自痛悔し、神と隣人と和解し、 来るべき新しい世紀に何をなすべきかを考えるために発表された。 今世紀の世界と教会の歴史を振り返ろうとすると、ショアの惨劇は避けてとおることができない。 これが西欧のキリスト教国の真ん中で起こったということで、 教会とその信徒の責任は当然厳しく問われなければならない。 そのような極悪非道がその西欧でどうして可能であったのか、 その根は深い。本文書は短いものだが、明瞭に2千年に及ぶユダヤ教と教会の関係を歴史的に辿りながら、 ショア−の遠因まで探り、ユダヤ人に陳謝し、過去の悲惨を来るべき新しい世紀に生かそうと呼びかける。 ここでカトリック世界にユダヤ教徒に対する疑惑、偏見、差別が根強くあった事実を率直に認め、 それが誤った新約聖書の解釈に負うところが大きかったことも否定できないと明言する。

 この文書は、古くからあるそのようなユダヤ人に対する蔑視、憎悪、 排除の風潮を反ユダヤ主義(Anti-Judaism)と呼び、この風潮が広く、根付いていたからこそ、 ナチス政権下に勃発したショア−に抵抗せず、その惨事を引き起こすことにつながったと考える。 他方、ショアーを直接実行することとなった民族主義イデオロギーを反セム主義(Anti-semitism)と呼び、 反ユダヤ主義と一線を画する。このような用語の用法は、これまで一般に用いられてきたものとは異なる。 これまで古くからあるユダヤ人に対する差別意識や憎悪の感情も反セム主義と言われてきた。 本文書は、反ユダヤ主義と反セム主義という二つの用語を新しく区別することにより、 反セム主義がキリスト教とは無関係のところにルーツをもつことを明らかにした。 これは無神論という現代の新しい異教をルーツとして芽生えてきたもので、 これは必然的にキリスト教に対しても牙をむくものであった。 実際に、「国家社会主義」とか、「第三帝国」とか言われる、 A・ヒットラーのナチス政権は、すべてキリスト教徒をも敵視するものであった。 こうしてこの反セム主義は、つまるところ民族とか国家を神格化することになった。 ショア−は、少数民族や社会集団を「異質なもの」と見なし、蔑視、差別、 排除の論理があるところではどこでも、その底流に民族とか国家とか、 人間の組織を神格化する偶像崇拝があることを垣間見せる出来事だったという。 この意味でショア−の問題は、現在も密かにあり続けており、 その惨劇は警告として記憶にとどめる必要がある。
 なお、1963年、劇作家R.ホッフートの作品『代理者』(R.Hochhuth,Der Stellvertreter)の発表以来、 ショアーに対するピオ12世の「沈黙」が非難の的になってきた。 教皇庁は第2次世界大戦中の文書を公開して、その歴史的事実の検証のために提供する一方、 ショアー文書では1963年以前にユダヤ社会の主要人物から同教皇に向けられた賛辞と謝辞を引用するにとどめ、 控えめにではあるが同教皇を弁護していることを付記しておく。 第2次世界大戦中の教皇庁の公文書の出版は、叢書 Actes et Documents du Saint Siege relatifs a la seconde guerre mondiale, edites par P.Blet, R.A.Graham, A.Martini, B.Schneider, Citta del Vaticano, 1965-1981の中の11巻、12冊(第3巻は2冊)で行われている。ピオ12世とユダヤ人問題については、数多くの書物があるが、P.Blet, Pie XII et la seconde guerre mondiale d'apres les archives du Vatican, Paris, 1997 は最も参考になろう。


II.第2ヴァティカン公会議のユダヤ教条項

 カトリック教会が教会としてユダヤ人との関係をいかに見るべきかを再検討し、 全信徒の意識改革に乗り出したのは、第2ヴァティカン公会議(1962−1965年)においてであった。 それも同公会議の召集したヨハネ23世、同公会議を締めくくったパウロ6世、 および両教皇に協力してユダヤ教徒との関係の条項 (以下ユダヤ教条項と呼ぶ)を作成したA・ベア枢機卿の個人的努力に負うところが大きい。 第2ヴァティカン公会議の『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』第4項がユダヤ教条項であるが、この宣言の解説として、南山大学監修『第2バチカン公会議公文書解説全集』、1「世界に開かれた教会」、中央出版社(現サン・パウロ)、昭和43(1968)年:諸宗教宣言の解説483−586頁; Les relations de L'Eglise avec les religions non Chretiennes, Declaration 1958年11月に教皇に選出されヨハネ23世は、 以前大戦中トルコのイスタンブールにヴァティカン大使として赴任中、 外交官の立場を利用して多くのユダヤ人の命を救った。 世界ユダヤ人協会の代表者はそのとき受けた保護の手を感謝するために教皇謁見を願い出て、 これが1960年1月18日に行われた。これがきっかけとなって、 すでに始まっていた第2ヴァティカン公会議の草案になかったユダヤ教条令が急遽加えられることとなった。 教皇はその草案の作成を、当時キリスト教一致推進事務局のベア枢機卿に依頼した。 その草案には公会議中繰り返し否定や批判の声が出された。 この草案の成り行きを見張るためにイスラエル人がローマに居を構えたという噂が流れ、 アラブ諸国の司教たちが警戒し、反発したこともあった。 当時ヴァティカンもアラブ諸国と歩調をあわせて、イスラエル国家を承認していなかったが、 この条項をもってイスラエル寄りの政策転換をするのではないかとの危惧もアラブ諸国にあった。 しかし、ベア枢機卿は拒否反応や批判の声に挫折することなく、 この条項が必要であることを教皇に進言し、公会議代表者にはこの条項が政治的ではなく、 純粋に宗教的な次元に立って作成されるものであることをくりかえし説いた。
 また、公会議の審議が進むと同時に教会憲章の草案の検討の中で、 ユダヤ教など諸宗教との関係をいかに理解すべきか、 神の救いの計画の中で諸宗教は神学的にいかに位置づけられるのかが深められ、 他方「罪人の教会」としての教会の自覚も広がりを見せた。 また『信教の自由に関する宣言』の検討もなされ、ユダヤ教条項承認の外堀が埋められた。 それに1963年のヨハネ23世の没後新しく選出された教皇パウロ6世は聖地を巡礼し、 その途上イスラエルとアラブ諸国の政治的、宗教的指導者と対話を重ね、 この人的交流の促進が相互の疑惑を解き、信頼を深めた。 それに諸宗教との対話事務局が設置され、制度的にも、 諸宗教との対話促進が強化されることになった。 こうしてユダヤ教条項は紆余曲折を経て第4総会において、 1965年10月15日に可決、承認された。 これが『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』(以下諸宗教宣言と略すか、 その冒頭の言葉を取って、『ノストラ・エターテ』(Nostra Aetate)と呼ぶ)の第4項のユダヤ教条項である。 その成立に至る過程で、ユダヤ教など諸宗教の理解のみならず、キリスト教の自己理解も深められ、 教会全体の意識改革がもたらされた。これがその後のカトリック教会における諸宗教との対話路線の基礎となり、第一歩となった。

 このユダヤ教条項の豊富な内容を理解するためには詳しい解説が必要である。 ここではただその主要な事項を列挙すれば、キリスト教が自己を探れば探るほど、 ユダヤ教にその信仰と倫理の本質を負っていること、キリスト教はそこから分離したが、 ユダヤ教徒が現在も神にとって最も貴重な存在であること、 そのユダヤ教とは今後対話を促進する必要があり、 これまで培ってきたユダヤ教に対する差別と憎悪を遺憾とすること、 反ユダヤ主義には聖書的根拠がまったくないことである。ここにその私訳を掲げておく。
 『この聖なる教会会議は、教会の秘義を吟味しながら、 新約の民とアブラハムの子孫とを霊的に結ぶ絆に心を留める。
 事実、キリストの教会は、神の救いの秘義にしたがって、 自分の信仰と選びがすでに父祖たちとモーセと預言者たちの中に起源をもつことを認める。 教会はすべてのキリスト教徒が信仰によってアブラハムの子であり、 同じ父祖アブラハムが受けた召し出しの中に含まれていること、 奴隷であった地からの選ばれた民の脱出の中に教会の救いが神秘的に予め示されていることを公言する。 それゆえ教会は、神が名状し難い慈悲によって古い契約にお入りになったこの民をとおして、 旧約の啓示を受けたこと、異邦人である野生のオリーブの枝がよいオリーブの木につぎ木されて、 その根に養われていることを忘れることができない。教会は、わたしたちの平和であるキリストが、 十字架をとおしてユダヤ人と異邦人を和解させ、両者を自分のうちにひとつにしてくださったことを信じるからである。
 また教会は、使徒パウロが自分の同族について述べたことばを常に念頭におく。 「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです」(ロマ9:4−5)、 おとめマリアの子であるキリストも。教会はその土台であり支柱である使徒たちも、 世界にキリストの福音を告げ知らせた多くの最初の弟子たちもユダヤ民族の出身であることを覚えている。
 聖書が証言するとおり、エルサレムは訪れの時を知らず、またユダヤ人は大部分が福音を受け入れず、 しかも福音の宣布に立ち向かった者も少なからずいた。にもかかわらず、 使徒パウロによれば、神にとってユダヤ人は、その父祖のゆえに今も最も愛すべきものであり、 その賜物と召し出しを悔やんではおられない。預言者たちと使徒パウロとともに教会は、 すべての民が声を合わせて主に祈り「肩を並べて主に仕える」(ゼファ3:9)日、 この神だけが知っている日が来ることを待っている。
 キリスト教徒とユダヤ教徒が共有する霊的遺産はこれほど大きいものであるゆえ、 この聖なる教会会議は、特に聖書と神学の研究や兄弟的対話によって相互に理解しあい、 尊重しあうようになることを喜び、勧めたい。
 キリストの死を迫ったのがユダヤ人権力者とその輩であったが、 キリストの受難にあたってなされたことの責任を、無差別に当時のすべてのユダヤ人にも、 また今日のユダヤ人にも負わせることはできない。 教会は神の新しい民であるとはいえ、ユダヤ人が神から見捨てられた者であるとか、呪われた者であるとか、 しかもこれがあたかも聖書から結論されるかのように紹介されることはあってはならない。 それゆえ、要理教育や神のことばの宣教にあって、 福音の真理とキリストの精神に合わないことは何も教えないように皆が心がけなければならない。
 さらに、だれに対するものでも、すべての迫害を非難する教会は、 ユダヤ教徒との共通の遺産を心に留め、政治的な理由からではなく、 福音の宗教的愛にかりたてられ、ユダヤ教徒に対する憎しみ、 迫害、反ユダヤ主義の運動があれば、それがいつ、だれによってなされるものでも、これを嘆き悲しむ。
 他方、教会が常に主張してきたし、今も主張するとおり、 キリストは限りない愛をもって、すべての人の罪のために、苦難と死にすすんで服し、 すべての人が救いを得るようにされた。したがって、 宣教する教会にはキリストの十字架を神の普遍的な愛のしるしとして、 またすべての恩恵の泉として告げ知らせる義務がある。』


III.第2ヴァティカン公会議以後の対話促進

 公会議以後、決議されたユダヤ教条項を実践するため定期的にユダヤ教徒との会合が行われたが、 その作業を強化するため教皇庁には1974年10月22日に「ユダヤ教との宗教的関係のための委員会」が創設された。 その委員会より、ユダヤ教条項実践のための指導要綱として、 1975年1月1日に『公会議の宣言ノストラ・エターテ第4項を応用するための指針と提案』、 La Documentation Catholique, 19 janvier 1975, No.1668, 59-68 参照。 1985年6月24日に『カトリック教会の説教と教理においてユダヤ人とユダヤ教を正しく表現するための覚え書』 La Documentation Catholique, 21 juillet 1985, No.1900, 733-738 参照。 が作成され、 発表された。このたびのショアー文書を作成し、発表したのも同委員会である。 またアメリカ合衆国やフランス、スペインなど各国の司教協議会の中には、 独自の実践計画を作成し、ユダヤ教との対話促進の努力をしてきたものもある。
 ユダヤ教との関係は、ヨハネ・パウロ2世の登場と共にいっそう促進することになる。 ポーランド出身の同教皇は、若いときナチス支配の脅威を身をもって体験し、 個人的に隣人や友人の中にユダヤ人が多く、その苦しみをつぶさに見てきた。 G.F.Svidercoschi, 同教皇はたびたび巡礼団の謁見において、また各地の訪問先でショアーについて語り、 ユダヤ教徒との対話促進を説いたが、1986年4月16日のローマのユダヤ教会堂訪問は特に意義深い。 La Documentation Catholique, 4 mai 1986, No.1917, 433-439 参照。 ローマの会堂は教会より古い歴史をもっており、同じ場所にあるのではないが、 この由緒ある会堂に歴史上初めて同教皇は、「ローマの司教として、 全世界のカトリックの普遍的牧者として」訪問した。ローマおよびイタリアのユダヤ社会もその訪問を歓迎した。 その式典においてまず聖書朗読と詩編の祈りを共にした。 その後、ロ−マのユダヤ社会の主席G・サバンは、歓迎の意を表明してから、 ローマのユダヤ社会が経てきた厳しい歴史を率直ふりかえりながらも、 ヨハネ23世以来変化した教会の態度を高く評価した。続いて主席ラビのE・トアフは歓迎の意を表明するともに、 ユダヤ教とキリスト教が共有する霊的遺産としての唯一神信仰と十戒に表されているモラルをもって人類のため、 その生命、自由、人権擁護のため共に働くよう呼びかけた。その中にユダヤ人が土地を有し、 生存権を確保することも含まれていると述べた。最後にヨハネ・パウロ2世が講演し、 歓迎を感謝してから、まずおぞましいホロコーストに思いをいたした。同教皇がはじめて里帰りし、 かつてナチスによるユダヤ人大量虐殺があったアウシュヴィッツを訪れ、ヘブライ語の墓碑の前で述べたことを繰り返した。
 「この墓碑は、その子らと娘らが全滅のもくろみにあった民族の記憶を呼びさまします。 この墓碑は、タルソのパウロも言っているようにわたしたちの信仰の父であるアブラハムに起源をもっています。 彼らは、"なんじ殺すなかれ"という掟を神から受けた、まさにその民族でありますが、 その"殺す"ということが何を意味するか、自ら特別な規模で体験した民族です。 無関心にこの墓碑を通りすぎることは、だれにもゆるされません」。 『カトリック新聞』、昭和56年、1981年、8月23日号3頁参照。
 さらに『ノストラ・エターテ』に言及し、特にキリスト教は、 自らの秘義を追い求めていくと、ユダヤ教との絆に気づくこと、 キリスト教にとってユダヤ教は、"外なるもの"ではなく"内なるもの"であり、 ユダヤ教は優先すべき兄弟であり、「ある意味で兄とさえ言える」ということ。 イエスの受難のときに起こったことのいかなる責任も民族としてのユダヤ人に負わせることはできないということ、 ユダヤ人差別と迫害を神学的に正当化する根拠はないこと、そこから帰結されることだが、 ユダヤ人が神から排斥された者、呪われた者とかいうことは新約聖書からも旧約聖書からも結論されないこと、 ユダヤ人はむしろ神にとってきわめて貴いものであり(ロマ11・28)、 その使命は消されるものではないと明言した。


IV.イスラエルとヴァティカン外交関係正常化

 ここで1993年のイスラエルとヴァティカン外交関係正常化を特筆しなければならない。 1947年に国際連合は、パレスティナにユダヤ人国家を創ることを承認したが、 これと同時にアラブ諸国の軍隊が攻撃を激化し、イスラエル独立戦争が始まった。 その間に、1948年5月14日、イスラエルは、国家創設を宣言し、 この地における英国の委任統治が終了した。独立戦争は、1949年2月の休戦協定調印まで続いた。 このとき、停戦ラインが引かれ、エルサレムも分割された。 その後、1956年10月29日−11月5日の第1次スエズ戦争を経て、 1967年6月5−11日に第2次スエズ戦争、いわゆる6日間戦争が起こり、 イスラエル軍はエルサレム全市、ヨルダン川西岸およびシナイ半島を制圧した。 その後1973年秋、第3次スエズ戦争、いわゆるヨム・キップール戦争、 続いてエジプトへのシナイ半島返還、イスラエルとエジプトとの外交関係正常化、 ヨルダン王国によるヨルダン川西岸の主権放棄、 イスラエルとヨルダンの外交関係正常化、和平条約、 1993年9月のイスラエルとパレスティナの合意があって現在に至っている。 この合意の実現はイスラエル首相ラビン氏殺害、ネタニヤフ氏の首相就任があって、 一時失速したが、現在再び始動し始めた。
 この間、ヴァティカンは、イスラエル国家に対して敵対的立場を取ったわけではないが、 公式に承認せず、外交関係を有しないままきた。事の成り行きを静観してきたといえよう。 他方、イスラエル国民、またカトリック教徒の中にも、 ヴァティカンがどうしてイスラエル国家を承認しないのかとの疑問があった。 このあいまいさは誤解を招く危険もあり、イスラエルとヴァティカン関係正常化は懸案であった。
 1992年7月29日にイスラエルとヴァティカン関係正常化に向けての合同委員会が創設され、 1993年12月30日にイスラエルとヴァテイカンの聖座との関係を定めた「幾つかの基本原則の合意」に達し、 その文書が調印された。 La Documentation Catholique, 6 fevrier 1994, No.2087, 116-118 参照。 それはイスラエル国会(クネセット)でも批准され、 翌年両国の大使が就任し、正式に外交関係が樹立された。 このイスラエル・ヴァティカン関係正常化は、 中東における国際関係の推移を考慮して実に時宜にかなった対処であり、 また当時のラビン首相、ペレス外相の功績も高く評価されなければならない。 この外交関係正常化は二つの小さな国の関係というだけではない。 日本の四国ほどの国イスラエルと大阪の天王寺区ほどの国ヴァティカンとの外交関係樹立というだけでなく、 全世界のユダヤ教徒とカトリックをはじめキリスト教徒との和解という意味をもつ。 合意されたのは幾つかの基本原則とあり、15項目にまとめられている。 基本原則とあるのは、具体的な個々の問題が未解決のままであり、 その解決への道のりがきわめて険しいことも当然認めあっている。 しかし、教会とユダヤ民族の特別な友情の本質、 カトリック教徒とユダヤ人との和解および相互理解と友情の増進の歴史的経過を認めあって、 対話を促進していこうと新しい一歩を踏み出したことに大きな意義がある。
 「幾つかの基本原則の合意」の第3条第3項にあるイスラエルにおける教会諸団体の法人格について、 1997年11月10日にさらなる合意に達した。 La Documentation Catholique, 4 javier, 1998, No.2173, 8-11 参照。 このヴァティカンとイスラエルの外交正常化にあわせてイスラエル国、 さらに中東アラブ諸国の教会のありかたやエルサレムの帰属問題などが活発に議論されるようになる一方、 各地でユダヤ教徒との出会いや対話が大いになされるようになった。


結び

 1998年のショアー文書は、以上のような歴史的背景のもとに発表された。 それは第2ヴァティカン公会議のユダヤ教条項が投げかけた波紋として、 またその実りとして考えなければならない。 このユダヤ教条項は純粋に宗教的次元に立って作成されたものであるが、 社会的に、また政治的にも影響し、よい結果を産むこととなった。 さらに現在のヨーロッパ諸国は北欧、東欧も含めて統合への道を歩むと共に、 そこにはアフリカ系、アラブ系、アジア系の諸民族が移住してきて、 かつてのような白人のキリスト教国とは言えなくなった。 そこでは異民族のみならず、異なる宗教的信念の隣人と共存共生しなければならなくなった。 この新しい状況のもとでキリスト教徒は諸宗教の隣人といかに生活していくか、 問題になることが多い。その基本的な指針が第2ヴァティカン公会議で示されたのだった。 その先見の明にあらためて驚きを覚える。その指針を、 ここでユダヤ教との関係に限っていかに実行するよう努め、 その実りを結ばせつつあるのかを、確認できた。
 このように異民族、異なる宗教の隣人と共存共生していかなければならないのは、 今後の日本についても言える。キリスト教とユダヤ教の関係の歴史、 その問題およびその問題解決への取り組みは、われわれ日本人にも確かに参考となろう。 民族と宗教の違いを超えて、まずすべての人に共通する人間の生命と尊厳の根拠を、 どこに求めたらよいのだろうか、真剣に考えておかなければならない。 その最終の根拠を納得し、説得力をもって説くことができなければ、 また民族や国家などを神格化してショアーの惨劇へと、 いつか来た道を再び歩むことになるかもしれない。ショアー文書の中核であるこの呼びかけは、 われわれ日本人にとっても聞き捨てにしてはならないものである。
 キリスト教とユダヤ教の対話の歩みの実りとして、 大聖年2000年にはまた大きな一歩となる恵みが与えられた。 その四旬節の第1主日、3月12日に、教皇ヨハネ・パウロ2世は教会として犯した過去の罪を認め、 ゆるしを願うミサを行った。その中の共同祈願でユダヤ教に対して犯した罪も告白した。 その直後、3月21日−26日に同教皇はイスラエルに巡礼し、 エルサレムの嘆きの壁などユダヤ教の聖所を訪れ、ユダヤ教の代表者たちとの出会いも行われた。 そのときの演説も重要な文書として忘れてはならない。
原文は、Commission for Religous Relations with the Jews, WE REMEMBER :A REFLECTION ON THE SHOAH, Vatican City, 1998
『アンネの日記』は、オランダ国立戦時資料研究所編、深町真理子訳、文芸社、1986年、エリ・ヴィーゼルの作品としては、たとえば『夜・夜明け・昼』、村上光彦訳、みすず書房、1984年、V・E・フランクル著『夜と霧』は、霜山徳爾訳、みすず書房参照。ホロコーストについては多数の文献があるが、特にEncyclopedia Judaica 8, col.828-916 のHolocaust の項、またマイケル・R・マラス著、長田浩彰訳『ホロコースト』、時事通信社;鵜飼哲、高橋哲哉編『「ショア」の衝撃』、未来社など参照。
ビデオテープとして、クロード・ランズマン監督製作 SHOAH、全4巻、シグロ/エースピクチャーズ/日本ヘラルド映画、発売元:日本ヘラルド映画がある。また優秀な記録映画として、S・スピルバーグ監督の1993年の作品『シンドラーのリスト』もある。
邦訳は、教皇ヨハネ・パウロ2世使徒的書簡『紀元2000年の到来』、カトリック中央協議会、1995年がある。
第2次世界大戦中の教皇庁の公文書の出版は、叢書 Actes et Documents du Saint Siège relatifs a la seconde guerre mondiale, édités par P.Blet, R.A.Graham, A.Martini, B.Schneider, Citta del Vaticano, 1965-1981の中の11巻、12冊(第3巻は2冊)で行われている。ピオ12世とユダヤ人問題については、数多くの書物があるが、P.Blet, Pie XII et la seconde guerre mondiale d'après les archives du Vatican, Paris, 1997 は最も参考になろう。
第2ヴァティカン公会議の『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』第4項がユダヤ教条項であるが、この宣言の解説として、南山大学監修『第2バチカン公会議公文書解説全集』、1「世界に開かれた教会」、中央出版社(現サン・パウロ)、昭和43(1968)年:諸宗教宣言の解説483−586頁; Les relations de L'Église avec les religions non Chrètiennes, Déclaration "Nostra Aetate", sous la direciton de A.-M.Henry, Unam Sanctam 61, Paris, 1966, Paris ; Lexikon für Theologie und Kirche, Das zweite Vatikanische Konzil, Konstitutionen, Dekrete und Erklärungen, lateinisch und deutsch, Kommentare, Teil II, 1967, Freiburg Basel Wien, 405-495 ; Masson, M., La Déclaration sur les religions non chrétienns, NRT 87(1965), 1066-1083 ; Oesterrcicher, J., La voix catholiques et évangelique à propos de la déclaration sur Juifs, Concilium 24(1967), 127-142 ; Id., Commentaires juifs sur la déclaration conciliaire, Concilium 28(1967). 91-102 ; Neudecker, R., L'Église catholique et le peuple juif, Vatican II Bilan et Perspective, Vingt-cinq ans après(1962-1987), sous la direction de R.Latourelle, Monreal-Paris, tome III, 281~318 参照。
La Documentation Catholique, 19 janvier 1975, No.1668, 59-68 参照。
La Documentation Catholique, 21 juillet 1985, No.1900, 733-738 参照。
G.F.Svidercoschi, "Ho conosciuto Nazismo e Comunismo", Karol Wojtyla un Papa tra due totalitarismi, Firenze, 1998 参照。
10 La Documentation Catholique, 4 mai 1986, No.1917, 433-439 参照。
11 『カトリック新聞』、昭和56年、1981年、8月23日号3頁参照。
12 La Documentation Catholique, 6 février 1994, No.2087, 116-118 参照。
13 La Documentation Catholique, 4 javier, 1998, No.2173, 8-11 参照。

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