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Bestiality of the Nations and the Kingdom of God

 
諸国家の野獣性と神の支配


 2001年10月7日(日本時間8日)、ついにアフガニスタンに対する空爆が始まった。 戦争の恐怖に逃げ惑う住民が目に浮かぶ。 対米同時多発テロの悲劇の報復とはいえ、ほかに解決の道はなかったのか、と悲しくなる。 またしても中東の町の夜空に閃光が走った。テレビで見る限り、音は聞こえない。 だが、現地では耳を裂く爆発音に住民はただ身を縮めて忍ぶだけであろう。 ちょうど10年前の1991年1月、イラクの首都バグダッドが最新兵器による凄い空襲を受けた。 つぎつぎと打ち込まれるミサイル、それを迎え撃つ対空放火で、暗闇の夜が花火のように点滅した。 そのとき、以前に世話したことのあるイラクの後輩たちを思い、胸が痛んだ。 空爆下の夜の町でどんな思いでいることか。彼らは、実に単純素朴で、いいやつだったのに。 あとで聞いたのだが、彼らも先生になっていて、子供たちと避難し、無事であった。 イラク大統領サダム・フセインの頑なさと愚かさには承服できないが、 欧米諸国に対するイラクの住民、それにアラブ諸国の住民の憤慨はそのままでは済まないと思った。 自由、人権、人命尊重と、人道主義を標榜する欧米諸国だが、結局武力にしか訴えることができないのか。 ほかに戦争を回避する英知はないのか。

 「ある夜、私は幻を見た。見よ、天の四方から風が起こって、大海を波立たせた。 するとその海から四頭の大きな獣が現れた。 それぞれ形が異なり、第一のものは獅子のようであったが、鷲の翼が生えていた。 見ていると、翼は引き抜かれ、地面から起き上がらされて人間のように足で立ち、人間の心が与えられた。 第二の獣は熊のようで、横ざまに寝て、二本の肋骨を口にくわえていた。 これに向かって、『立て、多くの肉を食らえ』という声がした。 つぎに見えたのはまた別の獣で、豹のようであった。 背には鳥の翼が四つあり、頭も四つあって、権力がこの獣に与えられた。 この夜の幻で更に続けて見たものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、 巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった。他の獣を異なっていた」(ダニエル書7:2−7)。

 超大国が武力にものを言わせて攻撃するとき、このダニエル書の一節が思い出される。 その著者は攻撃される側の国にいて、歴史の推移を眺めている。 ダニエルという主人公が見た幻という表現手法を用いて、また伝統的な神話にある題材を駆使して、 自分の生きていた時代までに起こっては滅んだ過去の大国を総括している。 「大海」が沸き返って、その中から大きな獣がつぎつぎと現れたという。 その数は「天の四方」と同じように「四頭」であった。この四の数字はシンボルで、総体をいう。 その最初の獣はライオンで、これはバビロニアを、第二の獣は熊で、 これはメディアを、第三の獣は豹で、これはペルシアを意味する。 最後に言葉を絶する最も恐ろしい獣が現れるが、これはアレキサンドロス大王のマケドニアを意味する。 この四つの国は、著者が生きていた時代までそれぞれ世界の覇権を握っては滅んでいった帝国である。 そのすべてが、総括すれば獣であったということ。 それは国家というものが野獣性を秘めているということ。 国家はここで典型として言われているとすれば、人間の組織はどれも野獣性を秘めているということであろう。 つまり、国家とその官僚機構のみならず、企業や会社など営利団体も、教育機関も、宗教団体も組織としては野獣だということ。 教会も組織としては例外ではないではないだろう。組織は野獣だから、ときどき牙をむく。 ある国家が武力を発動するとき、その牙が見える。ある会社が社員をリストラするとき、その牙が見える。 ある宗教団体がテロを容認するとき、その牙が見える。 ダニエル書の著者はこの世界にある組織の本質を見抜いているのではなかろうか。 その目をもって見れば、このたびの対米同時多発テロも、アフガニスタンへの攻撃も、野獣どうしの取っ組み合いと言えよう。

 この組織とは水と油のように相容れず、まったく異なる支配、覇権、国がある。 それはまもなく獣が滅ぼされて(ダニエル7:11)、現れるという。 それは「人の子のような者」が受け取る国として、野獣ではなく、人間の顔をもつといえよう。

「夜の幻をなお見ていると、
見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、
『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、
権威、威光、王権を受けた。
諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、
彼の支配はとこしえに続き、
その統治は滅びることがない」 (ダニエル書7:13−14)。

 ナザレのイエスがその到来を告げた神の国とは、この支配、覇権、国のことである。 これこそ、この世界にある閉塞状態を打破して、まったく新しい人間関係を実現するヴィジョンだ。 イエスは言った。「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1:15)。 その神の国は近くに来ているのだから、「悔い改めよ」という。 「悔い改める」、メタノイアとは、思考と生活形態をまったく移し変えるということ。 それは閉塞状態の思考と生活のままであってはならないということ。 戦争反対を叫ぶと共に、この悔い改めの呼びかけにひとりひとり耳を傾けないなら、閉塞状態は打破できまい。
 「人の子のような者」とは、キリスト教徒にとっては十字架上で命をささげたナザレのイエスのこと(マルコ14:62参照)。 このイエスと共に、イエスのように歴史を導く神を信じて希望し、 苦しみながらその意志への従順を貫く者がいれば、 そのこと自体、この閉塞状態の中に神の国が始まっている証拠ではないだろうか。 神の国が完全に実現する前の現状では、十字架が神の国のありようではないか。 マザー・テレサやマクシミリアン・コルベ神父など、その神の国の証人は身近にいる。

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