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わたしたちが信じるのは、神の愛



 神は天地万物の創造者です。これを認めるために信仰が絶対に必要とは言えないでしょう。 古来、この世界をよく見て、その起源に大いなる知恵と威力を備えた神があると考える哲学者がいました。 その神は歴史の支配者でもあるのです。これを認めるためにも信仰は絶対に必要とは言えないかもしれません。 人が神の摂理を述べるるとき、あいまいに歴史を導く神を考えているかもわかりません。 その神がわたしたちを救う意志をもっておられるかただということは、どうでしょうか。 これは信仰なしには確かなこととしてはわからないのではないでしょうか。 実は、これが信じるに価するものとして、聖書がその全体をもって認めるよう呼びかけていることなのです。 それゆえ、天地万物の創造者、歴史の支配者である神がわたしたちを救う意志を持っておられることを信じなければ、 キリスト教信仰は始まらないのです。そのことをパウロは「神の意志の計画」(エフェソ1の11)と言っています。 それは神が人間を救うためにこの歴史の中で実現しようと志(こころざし)ておられる計画をお持ちだということです。 その計画は、人間の知性には遠く及ばないものですから、「神の計画の秘義」(エフェソ1:9)とも言われます。 この「秘義」に向かって心を開いて受けとめるとき、「神がある」という抽象的な表現ではなく、 慈愛に満ちた「神がいる」という信仰が始まるのです。
 これは知性のレベルから見れば、いっそう高い次元への飛躍を意味します。 信仰にはこの飛躍の側面があります。 高い次元のことまで何もかも人間の理屈で処理しようとしてはならないのです。 しかし、忘れてはならないのは、意志のレベルといいましょうか、心のレベルもあるということです。 つまり、神がわたしたちを救う意志を持っておられるということは、わたしたちを愛してくださっているということです。 それゆえ、信仰するとはこの神の愛を信じることです。 ふりかえってみれば、愛のほか、わたしたちが信じて、自己を託すものがあるでしょうか。 実は、神は人間を知性のレベルでも意志のレベルでも絶えずいっそう高い次元に飛躍するよう招いておられるのです。 わたしたちが神を求めるか、求めないかというより、神のほうが先にわたしたちを求めておられるのです。 これが「啓示」ということで、それは神の「真理」だけではなく、それと共に神の「優しさ」の開示なのです。
 神の意志の計画、つまり秘義とは、具体的に何のことでしょうか。 それは聖パウロの言葉を借りれば、ギリシア語でアナケファライオサスタイという一語に尽きます(エフェソ1の10)。 それはすべての人間を、キリストを頭にして生きた共同体にすることといえましょう。 こういう意味でキリストとしてのイエスも、またそのキリストの体としての教会そのものも秘義なのです。 その秘義は、のちに秘跡と訳されることになりました。 その元来の意味に基いて、その意味を保ちながら、 秘跡は確かに神の恵みがあることの目に見えるしるしだと定義されてきました。 この意味で教会そのものは秘跡です。ですから、七つの個々の秘跡があるのです。
 したがって、わたしたちの信仰は、まず神の救いの意志を、その愛を信じることから始め、 その意志の実現として人間になった神の御ことば、イエス・キリストを信じ、秘跡としての教会を信じ、 その個々の秘跡で与えられる神の恵みを信じるものであるはずです。 わたしたちにとってこのキリスト、教会、秘跡が信仰内容の根幹なのです。 これこそ、第2バチカン公会議の教会憲章と啓示憲章の基礎となった信仰理解にほかなりません。 さらに、実はこのようなことを考え、書くこと自体を可能にし、 陰で支えている根源的なものがあるのですが、それが聖霊ではないでしょうか。 

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