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祈りと癒し



 祈りはこのめまぐるしく移り変わる現代の社会にあって、なんと難しいことでしょう。 忙しくて祈る時間がないのです。まず騒音に囲まれて、静かに祈る状況ではないのです。 それに大志もなくあくせく働き、コンビニで買った既成の食品で飢えを凌ぎ、 アルコールを飲んで寝床につく。このような毎日を送っていては、みんな病気になります。 からだが病んでしまうこともあれば、からだは健康でも精神が病んでしまうこともあります。 あせりやいらだち、徒労感や不安に心は落ち着きません。 現代人はみんな病んでいるのではないでしょうか。
 その癒しのために精神科医やカウンセラーにも限界があります。 彼ら自身も病んでいるかもわかりません。 さらにまた、神父や牧師、修道者、お坊さんなど宗教家自身までもが病んでいるかもしれません。 どうしてでしょうか。祈りがないからではないでしょうか。 祈りを知らない人はすべて病んでいるのです。

 この病からの癒しはどこにあるのでしょうか。お金ですか。 地位ですか、権力ですか、名誉ですか、知識ですか、快楽ですか。 人間の心は無限なるものを志向しており、そのようなものでは満たされません。 静かに自分の心の奥底に、心の目を振り向けてみれば、だれでも無限なるものに志向する自分の心に気がつくはずです。 その心が志向するものに答えてくれるものを見出さなければ、最終的な癒しはないでしょう。 その答えてくれるものが見えないようにされている。わたしたちの心は閉塞状態に置かれている。 心の盲目の状態に置かれている。これが現代、病の根本原因ではないでしょうか。
 こういう意味で、わたしたちの心が志向するものを最終的満たしてくれるものに突破口を開かなければなりません。 これは真、善、美、聖性そのものということもできましょう。 そういうおかたとしての神にこそ癒しがあるのではないでしょうか。 「わたしはあなたを癒す主である」(出エジプト記15:26)と、 神ご自身語りかけておられるかのようです。
 実は、神は身近におられるのです。わたし自身よりももっと身近におられるのです。 わたしの心の奥底よりもっと深いところにおられるのです。 深い静けさの中で、その主なる神と心を通わせたいものです。 それこそ祈りであり、この祈りの中にこそ、癒しがあるのではないでしょうか。 このように祈るために、特別な宗教に所属する必要はありません。 祈りはだれにでもできるのです。宗教に属さないほうが、純粋に神と心を通わせることができるかもしれません。 勇気を出して、静けさを求め、自己の深みと向かい合いましょう。 その深みの、さらに深いところで神に出会えるかもしれません。 「あなたを待っていた」という声が聞こえるかもしれません。 そのとき自然に合掌できれば、りっぱな祈りです。
 神は天地の創造者、歴史の支配者として遠くにおられるのではなく、わたし自身よりも身近におられえるのです。 この神に向かって、「主よ、あなたの中に憩うまでは、わたしの心は安らぎを得ない」と、アウグスティヌスは言いました。 これは現代人にとって、ますます重みを増すことばではないでしょうか。

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